1547年~1611年(享年65歳)
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代の武家・真田家の当主です。
真田信之、信繫(幸村)の父であり、真田家を存続させるため武田家、北条家、豊臣家など多くの大名に仕えて乱世を奔走しました。
真田昌幸の生まれ
昌幸は天文16年(1547年)に信濃国(長野)で生まれました。父は武田信玄の家臣・真田幸隆で、幼名は源五郎といいます。
兄に信綱・昌輝がいるため、当初昌幸は真田家の家督を得る権利はありませんでした。
奥近習六人衆
天文22年(1553年)には、人質として7歳で信玄の元へ行き、奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)として仕えます。
奥近習六人衆とは武田家の側近中の側近であり、将来武田家の幹部候補となる人物です。
奥近習六人衆は昌幸のほか、金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎の合わせて6人がいました。
武田二十四将
永禄7年(1564年)頃、昌幸は信之、信繁(幸村)の母となる山手殿を妻に迎えました。
元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻すると、信玄は物見の偵察として昌幸と曽根昌世を派遣しており、二将を「信玄の両の目」と言ったということから、昌幸が信玄から信頼されていたことが伺えます。
また、昌幸だけでなく父・幸隆、兄の信綱、昌輝らも信玄から厚く信頼されており、親子そろって武田二十四将の内に数えられている名家でもありました。
真田家当主
元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、昌幸は信玄の子・勝頼に仕えました。
翌年に父・幸隆が亡くなると、家督は長兄の信綱が継承します。
しかし、天正3年(1575年)の長篠の戦いで信綱と昌輝が討ち死にしたため、昌幸は真田家の家督を継ぐことになりました。
武田家の滅亡
天正10年(1582年)から織田信長・徳川家康による甲州征伐が始まり、武田領国へ侵攻してきました。
昌幸は勝頼に甲斐国を捨てて、上野国吾妻郡にあった岩櫃城へ逃げるよう進言しましたが、勝頼はそれを容れず、甲斐国都留にあった岩殿城へ逃げました。
しかし、岩殿城主・小山田信茂の裏切りにより入城は叶わず、勝頼は敵の追撃に追い込まれて自決しました。
武田家滅亡後、昌幸は信長の勢力に組み込まれ、織田家の重臣・滝川一益の与力武将となります。
天正壬午の乱
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、無主となった武田領を巡って家康・上杉景勝・北条氏直らの争いが起こります。
仕える主を持たない昌幸は一度氏直に降ったものの、氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して家康に付きます。
しかし徳川家と北条家が和睦すると、その条件として、昌幸が治めていた上野国・沼田領を譲渡するよう言われました。昌幸はこれを拒否し、徳川・北条と敵対していた上杉景勝に臣従しました。
第一次上田合戦
天正13年(1585年)、徳川家康と北条氏直は約7,000の兵力を率いて、和睦の条件を拒否した昌幸の居城・上田城と沼田城へ侵攻してきました。
昌幸側の兵力はわずか2,000でしたが、地の利を活かした戦法により、敵方1,300人もの死傷者を出して大勝を収めました。
天正13年(1585年)に上杉景勝に人質として差し出していた信繫が豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸も豊臣秀吉に臣従しました。
天正18年(1590年)の小田原征伐に昌幸は上杉景勝・前田利家らと共に参戦し、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城のほか、北条家の城を次々と陥落させていきます。
北条家の降伏後、昌幸は秀吉から旧領を安堵され、沼田領は嫡子の信之に与えられました。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老筆頭の家康が台頭し始めます。昌幸は家康に従い、会津征伐に乗り出した家康の軍に従軍しました。
しかし、その途中で石田三成が挙兵した知らせを受けると、昌幸は息子の信之、信繫と共に会議を開き、東軍、西軍どちらに付くか話し合いました。
会議の結果、昌幸と信繫は西軍に付き、本田忠勝の娘・小松姫を妻に迎えていた信之は東軍に付くことになりました。
第二次上田合戦
関ヶ原の戦いが開戦すると、家康の三男・徳川秀忠が約38,000の兵を率いて上田城に攻め込んできました。昌幸は2,000の兵力で籠城していましたが、秀忠は信之と本多忠政を使者にして帰順するよう勧告します。
秀忠の勧告に対し、昌幸は帰順するように見せかけて、土壇場で抗戦の意思を示しました。これは秀忠軍が上田城攻めに集中するよう仕掛けた昌幸の作戦です。
上田城攻めの間、信之が上田の支城である沼田城を攻めることが分かると、昌幸は同族同士の争いを避けるため、沼田城を守らせていた信繫に上田城へ来るよう指示します。
昌幸は上田城に籠城し続ける作戦を取り、奇策をもって秀忠軍を翻弄しました。その内に秀忠は家康から上洛を命じられたため、上田城の攻略は叶わず撤退します。
その後、昌幸は三成敗戦の報せを受けてもすぐには降伏しませんでしたが、いよいよ西軍敗北の情勢となってくると、徳川からの降伏・開城要請に応じました。
最期
関ヶ原の戦いで西軍に付いた昌幸と信繫は死罪になる予定でしたが、信之と信之の義理の父・本田忠勝の助命嘆願により、昌幸と信繫は紀伊国の高野山、九度山へ流罪となりました。
また、昌幸の去った上田城は徳川によって破却されました。昌幸は信之と別れる際、「さても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と悔し涙を流したといいます。
流罪後の昌幸と信繫は、信之や和歌山藩主・浅野幸長からの援助を受けて生活していましたが、流罪生活は10年以上続き、その間に昌幸は気力も衰え、うつ状態に陥っていきます。
昌幸はいつか国許へ復帰する機会をうかがっていましたが、次第に病気がちになり、慶長16年(1611年)に九度山で病没しました。
真田昌幸の逸話
表裏比興者
天正14年(1586年)に上杉景勝が秀吉の元へ上洛する際、その労をねぎらうため石田三成・増田長盛が景勝に書状を送りました。書状の内容には昌幸に関する内容が書かれており、昌幸の印象を表裏比興者と言っています。
「比興者」は現代では「卑怯者」と当て字されますが、当時は「老獪」という意味を持つ言葉であり、一筋縄ではいかない、知謀・策略に長けた人物という誉め言葉として使われていました。
筆まめ
昌幸は非常に筆まめな人物だったようで、昌幸が息子や家臣らに書き残した書状が多く残っています。
また、九度山で亡くなる一か月前に「信之に一目会いたい」という内容の書状を送っていました。
昌幸と島田兵四郎
第二次上田合戦の最中、徳川秀忠は先陣にいる味方に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という部下に伝令を任せました。
兵四郎は伝令を任されたものの、上田の地理がよく分かっておらず、上田城を迂回すれば伝達に時間がかかると思いました。そこで、上田城の大手門前まで馬を走らせると「上田城の先にいる先陣隊まで連絡したいので、城内を通過させてほしい」と言いました。
正面から敵城を通過したいと言ってきた兵四郎の突飛な発言に対し、昌幸は「何と肝っ玉の太い武士だろう。ここは通してやるといい」と言って、兵四郎に上田城内を通過させることを許しました。
また、兵四郎は「帰るときも城内を通してほしい」とちゃっかりお願いしていたので、昌幸はその通り、兵四郎の帰りにも上田城を通過することを許しました。
兵四郎が上田城まで戻ってくると、昌幸は兵四郎を迎え、自ら兵四郎に城内を案内しました。
昌幸は兵四郎に「そなたは上田城の様子を見て、様々な備えがあることが分かっただろう。しかし、本当の守りは大将の心の中にあるのだ」と言ったそうです。兵四郎に城内を案内し終えると、昌幸は門を開けて兵四郎を帰したといいます。
昌幸と家康
大坂冬の陣で、真田が大坂城に入城したという知らせを家康が受けると「それは親(昌幸)か、子(信繫)の方か」と尋ねたといいます。
大坂冬の陣が起こる前に昌幸は既に亡くなっていましたが、家康は本当に昌幸が死んだのか疑問視していたようです。
また、その知らせを受けたときに家康の手は震えていたともいわれ、家康は二度の上田合戦で徳川軍を敗退させた昌幸を恐れていたといわれています。
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