藤堂蔦

藤堂高虎像
1556年~1630年(享年75歳)
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、豊臣秀長、徳川家康に仕えた武将です。

8度主君を変えて豊臣政権下で出世し、江戸時代には伊勢津藩の初代藩主となりました。




藤堂高虎の家紋

藤堂蔦
藤堂家の家紋は藤堂蔦(とうどうつた)です。

蔦は他の樹木や地面などを広く伝わって伸びて行くことから、縁起の良い植物として家紋に用いられるようになりました。

藤堂高虎の生まれ

高虎は弘治2年(1556年)、近江(滋賀)犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれ、幼名は与吉と名付けられました。

藤堂家は在地の小領主でしたが、高虎が生まれた頃には没落氏族となっており、農民として暮らしていました。その後、高虎は近江の戦国大名・浅井長政に仕えます。

放浪時代

元亀元年(1570年)、高虎は姉川の戦いに足軽兵として参戦し、首級を取る武功を挙げて長政から感状を受けます。

天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井家が織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井家の旧臣・阿閉貞征、磯野員昌、更に近江を出て織田信澄などに仕えましたが、働きに見合った報酬が貰えず、どの仕官先にも納得できなかった高虎は各地を転々としました。

豊臣政権下

火縄銃
天正4年(1576年)、高虎は羽柴秀吉の弟・豊臣秀長に300石で仕えます。仕官から5年後には但馬国の土豪を討ち取ったことで3,000石に加増され、鉄砲大将に任じられました。

また、秀長に従って中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに鉄砲隊として参戦し、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して勝利に貢献したため1,300石を加増されました。

天正13年(1585年)の紀州征伐では湯川直晴を降伏させ、山本主膳を討ち取り、雑賀衆の鈴木重意(雑賀孫市)を自害に追い込むなどの功績から紀伊国粉河に5,000石を与えられ、同年に起こった四国攻めでも功績を挙げたことから1万石の大名になります。

その後、高虎は普請奉行に任命され、猿岡山城、和歌山城などの築城を行い、秀吉の命令で徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設しました。

天正15年(1587年)の九州征伐で、高虎は宮部継潤を救援した功績で2万石に加増されます。

大名復帰

宇和島城
宇和島城(愛媛県宇和島市)

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、秀長の婿養子・豊臣秀保に仕えましたが、秀保が夭逝したため高虎は出家しました。

しかし、秀吉が高虎の将才を惜しんだために高野山に上っていた高虎を説得して還俗させ、伊予国板島に7万石の大名として復帰しました。

慶長2年(1597年)、慶長の役で高虎は朝鮮水軍を殲滅させる武功を挙げて帰国後に1万石を加増されます。

関ヶ原の戦い

関ヶ原古戦場・決戦地
関ヶ原古戦場・決戦地(岐阜県不破郡関ヶ原町)

秀吉の死後、豊臣家臣団が石田三成を中心とした文治派、加藤清正福島正則らを中心とした武断派に二分対立すると、高虎は家康に付きました。

慶長5年(1600年)、家康によって行われた会津征伐に高虎も従軍し、三成らが挙兵して関ヶ原の戦いになると、関ヶ原本戦では脇坂安治や小川祐忠らが東軍に寝返るよう調略し、更に大谷吉継と戦いました。

戦後、高虎は家康より宇和島城8万石を安堵され、更に今治城12万石を加増されて20万石の大名となります。

伊勢津藩主

津城
津城(三重県津市)

江戸時代、高虎は徳川家重臣として今治城周辺の越智郡2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡・一志郡内10万石に加増移封されて伊勢津藩の初代藩主となります。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣、では豊臣方の長宗我部盛親と戦いましたが、盛親隊の猛攻を受けて藤堂隊は600人の死傷者を出し、家臣の藤堂良勝や藤堂高刑が戦死しました。

戦後、高虎は戦没者供養のために南禅寺(京都市左京区)に釈迦三尊像、十六羅漢像を奉納しました。

家康没後は徳川秀忠に仕えて32万3000石の大名となり、陸奥会津藩、讃岐高松藩、肥後熊本藩などの後見を務めて藩政を執り行います。内政では農地開発、城下町建設、寺社復興などで藩政を立てました。

元和9年(1623年)に高虎は死去し、藤堂家は長男の高次が継承しました。高虎の墓所は寒松院(東京都台東区)、高山神社(三重県津市)に建てられています。




藤堂高虎の逸話

主君を変えた理由

高虎は生涯で8度主君を変え、決して高くない身分から、自分の判断と実力で出世した人物です。何度も主君を変えるのは不忠者とされることもありますが、高虎は戦場で寝返る、離反することは一度もなく、より良い仕官先を求めて主君を変えていきました。

また、武士が働きに見合った恩賞を与えてくれる主君、将来性のある主君を選ぶことは室町時代には当たり前のことで、卑しいこととは思われていませんでした。

武士道として「忠臣は二君に事(つか)えず」という言葉に対し、高虎は「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と言い、主家に頼るのではなく、主家を自ら替えられるだけの実力、能力を備えた者こそ一人前の武士と考えていました。

高虎の身長

高虎は身長6尺2寸(約190cm)あり、戦国時代の男性の平均身長は150cm台であることから、相当な大男であったといわれています。

戦国時代に190cm程度の身長があったといわれる人物は、高虎の他に加藤清正(190㎝)、豊臣秀頼(195㎝)、斎藤義龍(195㎝)などの人物です。

出世の白餅

白餅
高虎は阿閉貞征の元を出奔した後、仕官先を探しながら浪人生活を送っていました。

流浪の途中、高虎は三河吉田宿(愛知県豊橋市)に辿り着き、吉田屋という餅屋で白餅を食べましたが、路銀も底を突いていたことから無銭飲食となり、高虎は店主の吉田屋彦兵衛に白状して謝罪します。

高虎の事情を聴くと、彦兵衛夫婦は高虎に「故郷に帰って親孝行をするように」と言い、餅代を請求せず高虎が故郷に帰る路銀まで与えてくれました。高虎は「この恩はいずれ必ず返します」と、彦兵衛夫婦に感謝して立ち去りました。

後年、江戸幕府の大名となった高虎は、参勤交代の際に彦兵衛の餅屋を訪れます。高虎は金子がぎっしり入った革袋を彦兵衛に渡し、かつての恩を述べた上で餅代を返上したといわれています。

ちなみに高虎の旗印は「三つ餅」と呼ばれる白餅が3つ縦に並んだ文様で、「白餅」は「城持ち」になれるという縁起が籠められています。また、高虎が餅を食べた三河では、武士には大きな城の城主になれるよう、山盛りに積んだ餅を差し出すのがもてなしとされていました。

かつて白餅の恩を受けた高虎は、彦兵衛に三つ餅の旗印を見せて「彦兵衛殿に教わった『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印としました」と感謝を述べたといいます。また高虎の意向によって、藤堂家は参勤交代の際に必ず三河吉田宿に宿泊するのが慣例となりました。

藤堂高虎と城郭

今治城
今治城・藤堂高虎公像(愛媛県今治市)

築城の名手と言われた高虎は、生涯で複数の築城・改修に関わりました。戦国時代、同じく築城の名手といわれる加藤清正が石垣の反りを重視したのに対し、高虎は石垣を高く積み上げる建築を行いました。

年代 城名 内容
文禄4年(1595) 大洲城(愛媛県大洲市) 高虎が大改修を行う
慶長元年(1596) 宇和島城(愛媛県宇和島市) 高虎が築城
慶長6年(1601) 膳所城(滋賀県大津市) 高虎が築城
慶長7年(1602) 今治城(愛媛県今治市) 高虎が築城
慶長13年(1608) 津城(三重県津市) 高虎が大改築を行う
慶長13年(1608) 伊賀上野城(三重県伊賀市) 高虎が大改築を行う
慶長13年(1608) 江戸城(東京都千代田区) 天下普請に参加、外郭の普請を担当
慶長14年(1609) 篠山城(兵庫県丹波篠山市) 天下普請に参加、縄張の普請を担当

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