1541年~1582年(享年41歳)
穴山 信君(あなやま のぶただ)は、甲斐武田家に仕えた人物です。

武田二十四将の一人で、出家後に「梅雪」と号したため、穴山梅雪(ばいせつ)の名でも知られています。

穴山信君の家紋

穴山家の家紋は三つ花菱です。

穴山家は甲斐武田家の庶流で、武田家では武田花菱という家紋が使われていたことから、穴山家でも花菱紋が使われていました。

穴山信君の生まれ

信君は天文10年(1541年)、甲斐武田家の家臣・穴山信友の嫡男として生まれ、母は武田信玄の姉です。

穴山家は武田家の庶流であり、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結んで主家と親族関係にありました。

また、駿河との国境付近である河内地方に家臣団組織や行政組織を持っており、家臣として仕えながらも独自の勢力を有していました。

天文22年(1553年)には武田家への人質として甲府館に送られていましたが、永禄元年(1558年)頃に父の信友が出家したため、信君が穴山家の家督を継ぎました。

武田家臣

永禄11年(1568年)から信玄が駿河侵攻を始めると、信君は内通を試みた今川家臣や徳川家との取次や大宮城(静岡県富士宮市)を攻めるなど貢献し、駿河が武田の領国となると、山県昌景の後任として江尻城代(静岡市清水区)となりました。

信玄没後は武田信豊らと一門衆として武田勝頼に仕え、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは多くの重臣が戦死しましたが、信君は決戦に反対したともいわれており、積極的に攻勢に出なかったため生き残りました。

結果、戦後処理で春日虎綱(高坂昌信)は信君の切腹を進言しましたが、勝頼はその意見を退けました。

武田家滅亡

天正9年(1581年)、勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らとの対立や
勝頼の娘が信君の嫡男・勝千代と婚姻する予定が反故になり、武田信豊の子に娶らせることが決まるなど、次第に穴山家と武田家には溝ができ始めました。

天正10年(1582年)織田・徳川連合軍が甲州征伐を起こすと、信君は甲斐一国の拝領と武田家の名跡継承を条件に連合軍に内通しました。

信君の治めていた江尻城は甲斐と東海道を結ぶ重要地点であったことから、信君の案内で連合軍が甲斐へ侵入し、最終的に武田家は滅亡しました。

戦後、甲斐一国の拝領は許されませんでしたが、信君は甲斐河内領と駿河江尻領を安堵されて織田信長に仕え、徳川家康の与力となります。

本能寺の変

本能寺
本能寺(京都市中京区)

その後、信君は信長へ御礼言上のため家康に随行して上洛しましたが、その途上で明智光秀の謀反が起こり、家康と畿内を脱出しようとしました。

家康が伊賀越えの道を選んだため、信君も最初は同道していましたが、厳しい山越えの道に不安を覚えた信君は途中から別行動を取ったところで亡くなりました。

死因は落ち武者狩り、光秀の命令を受けて家康らを狙っていた者に殺害された説や、追い詰められて自害した説などがあります。

子孫

信君没後は穴山勝千代(武田信治)が家督を継ぎ、家康に臣従して引き続き江尻・河内を統治しましたが、天正15年(1587年)に16歳で病没しました。

その後、家康の側室となった信君の養女が五男・武田信吉を生むと穴山武田家を継がせ、関ヶ原の戦い後は水戸藩主(25万石)となりましたが、21歳で病没したため甲斐穴山家は断絶しました。

その後、武田家の家督は信玄の二男・海野竜芳の家系へと移り、穴山家が再興されることはありませんでした。

信君の妻・見性院

信君の妻である見性院は信玄の娘で、信君亡き後は徳川家の庇護下で余生を送り、徳川秀忠の隠し子・保科正之を養育しました。

正之は見性院の縁で旧武田家臣であり信濃高遠藩主・保科正光の養子となりました。