織田木瓜

織田木瓜
1555年?~1582年(享年26歳?)
織田 信忠(おだ のぶただ)は、織田信長の長男です。信長の跡目を継いで織田家当主となりましたが、本能寺の変で信長と共に死去しました。




織田信忠の生まれ

信忠は弘治元年(1555年)~3年(1557年)に、尾張国(愛知)の大名・織田信長の長男として生まれました。母は久庵慶珠と呼ばれる人物ですが、側室で生駒家宗の娘・吉乃、もしくは信長の正室・濃姫ともいわれます。生駒吉乃が信忠の母である場合、同じ母の兄弟に弟・信雄と妹・徳姫がいます。

幼名は奇妙丸といい、元亀3年(1572年)~、天正元年(1573年)の間に元服後して「信忠」と名乗りました。

信長政権下

天正元年(1573年)に浅井長政、朝倉義景との戦いで初陣し、信長は一乗谷城の戦いで浅井、朝倉家を滅亡させました。以降も信忠は信長に従い、甲斐武田家との岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどに参加しました。

天正3年(1575年)、信長は長篠の戦いで武田勝頼に勝利し、信忠は岩村城攻めの総大将として出陣します。信忠軍は岩村城の武田重臣・秋山虎繁を攻め、夜襲を仕掛けてきた武田軍を打ち破り虎繁を降伏させました。虎繁の妻・遠山夫人は信長の叔母でしたが、信長の命令で虎繁と遠山夫人は処刑されました。

織田家当主

天正4年(1576年)、信忠は信長から織田家の家督と尾張国・美濃東部を譲られて織田家当主となり、信長は隠居して安土城主、信忠は岐阜城主となりました。また、この頃に斎藤利治が信忠の側近として仕えます。

天正5年(1577年)、信忠は雑賀衆討伐に向かい鈴木重秀(雑賀孫一)を降伏させました。同年、松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀羽柴秀吉らを率いて松永久秀・久通父子が籠城する信貴山城を陥落させ、久秀・久通を自害に追い込みます。

天正6年(1578年)、安芸の大名・毛利輝元が播磨国の上月城を奪還するため10万以上の大軍を率いて吉川元春小早川隆景らと出陣しました。

信忠は上月城の援軍として明智光秀、丹羽長秀滝川一益らと共に7万の大軍で中国へ侵攻します。しかし戦いが膠着状態になると、信長は三木城攻略に専念するため、信忠に上月城からの撤退を指示します。結果、上月城に籠城していた尼子勝久は毛利軍に降伏して自害し、上月城は落城しました。

甲州征伐

天正10年(1582年)、信忠は総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康北条氏政と共に武田領へ侵攻しました。信忠は河尻秀隆、滝川一益を率いて武田方の拠点である飯田城・高遠城を攻略し、高遠城では信忠自ら奮戦して塀の上に登って城に乗り込み指揮をとりました。

勝頼率いる武田軍は統率の取れないまま敗北し、勝頼は逃亡しましたが、信忠の追撃軍に追い込まれて自害しました。

本能寺の変

天正10年(1582年)、徳川家康が信長に会うため上洛し、信忠は家康の案内役として堺見物をしていました。途中、森蘭丸から中国へ向かう信長を迎えるよう言伝があり、信忠は案内役を別の家臣に任せて信長のいる京都へ向かいます。

京へ到着した信忠は京都の妙覚寺に滞在していましたが、明智光秀が謀反を起こすと信長救援のため本能寺へ向かいました。しかし既に信長は自害していたことから、信忠は光秀を迎え撃つため、側近・斎藤利治、異母弟・津田源三郎らと共に誠仁親王の居宅である二条新御所へ籠城しました。

信忠は誠仁親王を宮中へ脱出させた後、自らも刀を振るい寄せ手を3度撃退して善戦しましたが、明智軍1万以上の兵に対し織田軍は1,500ほどの兵力と、多勢に無勢の状況に遂に追い込まれて自害しました。また二条城に突入する際に明智軍が二条城に火を放ったため、信忠の遺体は信長同様発見されることはありませんでした。

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