1514年?~1575年(享年61歳)
馬場 信春(ばば のぶはる)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田3代に仕えた40数年で70回以上の戦いに参加し、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったことから「不死身の鬼美濃」と評されました。
馬場信春の生まれ
信春は永正11年(1514年)~永正12年(1515年)頃に甲斐北西、教来石村の国人衆・教来石信保の子として生まれました。
当初、信春は教来石景政(きょうらいし かげまさ)と名乗り、武田信虎の信濃進出の頃から武田家に仕え、信濃・海ノ口城攻略で武田軍として参戦し、敵将を討ち取ったといいます。
信玄時代
天文10年(1541年)、信虎が武田晴信(信玄)に追放されると、信虎時代に断絶となっていた武田譜代家臣・馬場家の名跡を継ぐことを命じられ、晴信より「信」の一字を賜り馬場信房と改名しました。
永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、高坂昌信と上杉軍の背後を攻撃する別動隊を率いたとされ、翌年には美濃守の名乗りを許されて馬場信春と改名します。
以後も駿河攻略、三増峠の戦い、西上作戦、三方ヶ原の戦いなど各地を転戦し、元亀4年(1573年)に信玄が亡くなると後継者・武田勝頼に仕えました。
勝頼時代
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、勝ち目のない戦いに内藤昌豊、山県昌景らと撤退を進言するものの勝頼に聞き入れられず、信春は武田軍右翼として配置されました。
馬場隊は700の兵力で織田方主力の佐久間信盛隊6000と対峙し、信春は兵を二手に分け佐久間隊に攻撃を仕掛けます。
緒戦は武田軍が有利に進みましたが、数で劣る味方の攻勢は長続きせず、次第に武田軍の戦線は崩壊し始め、勝頼は退却を決めました。
戦線を保っていた馬場隊は殿を務め、残った兵数百で追撃してくる大軍の行く手を阻み、勝頼が退却したのを見届けると、信春はまだ無傷でしたが、反転して追撃の織田軍と戦い討ち死にしたとも、首を差し出したともいわれています。
信春の最期は、「信長公記」で「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されました。
逸話
築城名手
信春は教来石姓を名乗っていた時期に足軽大将の山本勘助から築城術学んだとされ、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など武田方の支城を築城したといわれており、築城の名手とも評価されています。
武士の誇り
永禄11年(1568年)の駿河侵攻の際、信玄が敵城から貴重な宝物を先に運び出すよう指示すると、現場に駆けつけた信春は「貪欲な武将として後世の物笑いになる」と、運ばれた宝物を全て焼き討ちされた城に投げ捨てました。
それを知った信玄は「さすが7歳年上だけある」と、信春の器量に感心したといわれています。