1549~1582(享年34歳)
武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟です。織田信長による甲州征伐で、武田家が滅亡するまで勝頼に仕えました。
武田信豊の生まれ
武田信豊は天文18年(1549年)、武田信玄の弟・信繁の次男として生まれました。
永禄4年(1561年)、第4次川中島の戦いで父と長兄・信頼が死去したため家督を継ぎます。信豊は親族衆として穴山信君と共に信玄の子・勝頼を補佐しました。
永禄12年(1569年)には勝頼と共に北条綱重が守る蒲原城を攻め、綱重を含む武将を討ち取る武功を挙げました。天正元年(1573年)に信玄が死去して勝頼が後を継いだ後も、信豊は一門衆として勝頼に仕え続けます。
長篠の戦い
天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が織田信長に敗北すると、信豊は勝頼と共に撤退してそれ以降は外交に務めます。
天正4年(1576年)に将軍・足利義昭が信長打倒のため武田・北条・上杉の甲相越同盟を求めましたが、北条・上杉間の不和により武田・上杉のみの同盟が組まれました。
天正6年(1578年)には上杉謙信の死によって上杉景虎・上杉景勝が家督を巡る御館の乱が起こり、同盟に基づいて信豊が派遣されて景虎・景勝の和睦を調停しました。また、翌年には対立した北条家への対抗策として、常陸国の佐竹家とも甲佐同盟を結びました。
武田家滅亡
天正10年(1582年)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が信長と通じて武田家に反旗を翻し、勝頼は信豊ら討伐軍を木曾谷へ派遣します。
信豊は織田信忠の援軍を得た木曾勢に敗北して、信濃の小諸城へと逃れましたが、小諸城代・下曾根浄喜の裏切りによって嫡男・次郎らと共に自害に追い込ました。
その後、勝頼も織田・徳川勢の侵攻によって自害し、信豊の首は勝頼らと共に信長の元へ届けられ、妙心寺(京都市右京区)に葬られました。