永楽銭

永楽銭
1552年~1614年(享年63歳)
仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、豊臣秀吉に仕えた武将です。豊臣家最古参の武将であり、各地の戦に参戦して戦功を挙げ、大名となりました。

戸次川の戦いで敗戦し改易されましたが、小田原征伐で山中城攻めに参戦し、その功績から大名として復活しました。




仙石秀久の家紋

永楽銭
仙谷家の家紋は永楽銭です。

お金の家紋は富の象徴や、三途の川の渡し賃を意味することから、死を惜しまず戦うという意味があります。

また、永楽銭の家紋は「永楽」という字が縁起が良いことから家紋となったともいわれます。

仙石秀久の生まれ

秀久は天文21年(1552年)、美濃国(岐阜)の土豪・仙石久盛の四男として生まれました。

越前の豪族・萩原国満の養子として育てられましたが、秀久の兄たちが相次いで死去したため、秀久は実家に戻り仙谷家の当主となりました。

永禄10年(1567年)、主君として仕えていた斎藤龍興が稲葉山城の戦いで織田信長に敗れると、秀久は信長に気に入られ、羽柴秀吉に仕えることになりました。

織田軍参入

永禄7年(1564年)、14歳で織田家に仕えることになった秀久は羽柴隊の馬廻衆として各地を転戦し、姉川の戦いでは浅井軍の山崎新平を討ち取った功績で、近江国野洲郡に1,000石を与えられました。

天正2年(1574年)には羽柴家の家臣・野々村幸成の娘・本陽院を正室に迎え、その後中国攻略で戦功を挙げたことから4,000石に加増されました。

四国攻め・戸次川の戦い

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死去し、秀吉は中国大返しを行って明智光秀と戦いました。

秀久は光秀側に付いた淡路の豪族らを討伐し、その後は長宗我部元親と戦いましたが、敵の援軍が駆けつけると戦局が逆転し、秀久は敗走しました。

その後、秀久は平定させた淡路島の守備に当たり、長宗我部軍を牽制し続けました。

天正11年(1583年)、秀久は淡路平定の功から淡路5万石を拝領され大名となり、淡路水軍と呼ばれる水軍を統括し、四国攻めでは喜岡城(香川県高松市)を攻略しました。秀久はその功績から讃岐一国を与えられます。

九州征伐

天正14年(1586年)、九州征伐で、秀久は四国勢の軍監に任命されました。秀久は長宗我部元親の軍勢と、九州の同盟国である大友宗麟と出陣し、総勢二万の軍勢で豊後国の府内に着陣しました。

しかし、大兵力で戦に臨んだものの、士気が高いのは豊臣軍のみで、長宗我部軍は四国攻めを受けて降伏したばかりで軍内の統制が取れていませんでした。

これに焦りを感じた秀久は秀吉に相談する書状を送り、秀吉は無闇に攻勢に出ず、持久戦に持ち込むよう秀久に指示しました。

敗戦・改易

秀吉の返報を受けても敵が攻め寄せてくる事態に秀久は安心できず、最終的には独断で豊臣軍6,000の先陣隊で攻め込む指揮を執りました。

先陣隊は島津家久率いる1万と戦いましたが、秀久本隊が出陣すると島津軍は本隊を集中的に攻撃したため、元々島津軍に兵力で上回られていた秀久本隊は総崩れとなり、敗残兵を率いて讃岐国まで退却します。

結果、先陣隊の長宗我部元親の子・信親と讃岐国の武将・十河存保が討ち死にし、第三陣として控えていた元親は伊予国へ敗走し、豊臣軍は島津軍に敗北しました。

戦後、秀久は秀吉の命令を守らなかったこと、長宗我部親子や十河存保らの兵を置いて讃岐国まで逃げ延びたことで、それまでの名誉を失いました。秀吉は秀久から讃岐国を召し上げて改易とし、秀久を高野山に追放しました。




小田原征伐・山中城攻め

天正18年(1590年)、の小田原征伐で、追放されていた秀久は徳川家康の取り成しを受けて、息子・忠政と旧臣らを率いて参陣しました。

秀久は伊豆・山中城攻めで自ら先陣を切って槍を振るい、小田原城攻めでは虎口と呼ばれる城郭の要所を占拠する大功績を挙げました。

戦勝後、秀吉は秀久を赦免し、小田原征伐の功績から信濃国小諸に5万石を与え、大名として復活させました。その後、秀忠は肥前名護屋城、伏見城築城工事に務め、その功績で7,000石を加増されます。

関ヶ原の戦い

秀吉没後、小田原征伐で徳川家康の恩を受けていた秀久は、慶長5年(1600年)に家康によって行われた会津征伐で兵を集め、自らは徳川秀忠の軍に参陣しました。

石田三成が挙兵すると、秀忠軍は真田昌幸が守る上田城へ攻め込みましたが、昌幸の策を受けて苦戦し、その間に家康から関ヶ原に向かうよう連絡が来ます。

しかし、その伝令は天候の影響で遅れていたため、秀忠軍は関ヶ原決戦には間に合わず道中で戦勝の報せを聞くことになりました。

本戦に秀忠が遅参したことに家康は激怒しましたが、秀久は遅参した事情を説明して家康、秀忠の仲介役を務めました。

そのことから秀久は秀忠から厚く信頼され、秀忠が2代将軍となると重用され、旧領を安堵されて信濃小諸藩の初代藩主となりました。

仙石秀久の最期

秀久は豊臣恩顧の外様大名でありながら幕府からの信頼も高く、秀忠付という名誉職を賜り、江戸に参府するときは特別に妻子の同伴が許されるなど、破格の待遇を受けました。

慶長19年(1614年)、秀久は江戸から小諸藩へ帰る途中に病に倒れ、武州鴻巣(埼玉県鴻巣市)で死去しました。遺骸は西念寺(長野県佐久市)で荼毘に付され、仙谷家の家督は三男・忠政が継ぎました。

仙谷家は幕末に新政府に協力したため華族となり、明治時代後は子孫が貴族院議員となっています。




仙谷秀久の逸話

仙谷秀久の性格

宣教師ルイス・フロイスが著した「フロイス日本史」には「仙谷秀久は高尚な性格ではないが、独善的で決断力があり、武将としては優秀な人物として知られていた」と記述されています。

秀久は粗野な性格であったものの、信長、秀吉、家康と三大天下人からも気に入られていることから、勇猛果敢な戦いぶりが武人として愛される人物であったようです。

また、秀久は信心深い面もあり、紀州征伐の際に曰く付きの「安珍清姫の鐘」を合戦の合図に使う鐘として使用した後、清姫供養のため妙満寺に鐘を納めたり、小諸城主時代に健速神社(神奈川県秦野市)へ参拝した記録が残っています。

出石皿そば

小諸藩主時代、秀久は蕎麦を名産品にしようと取り組んでおり、更に蕎麦作りを通して領民と交流を図っていたことから、「仙谷さん」と呼ばれ親しまれていたそうです。

秀久の死後、仙谷家は小諸藩から信濃上田藩、但馬出石藩へと移されていきましたが、その際にそば職人たちが技法を伝えていったことで、兵庫県豊岡市出石町の郷土料理・出石皿そばが誕生しました。

秀久と石川五右衛門

伏見城
伏見城(京都市伏見区)

江戸時代、築城に関わった伏見城で、秀久は石川五右衛門を捕らえたといわれ、石川五右衛門が秀吉から盗もうとした「千鳥の香炉」を褒美として賜ったという伝承があります。

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