1532?年~1605?年(享年73歳)
前田慶次(まえだ けいじ)は前田利家、上杉景勝に仕えた戦国時代の武将です。
本名は前田利益(まえだ とします)といわれていますが、利太、利大、利貞など複数の名前を使っていました。織田信長の家臣・前田利家は、義理の叔父に当たります。
前田慶次の家紋
前田家の家紋は、加賀梅鉢(かがうめばち)です。叔父の前田利家も加賀梅鉢紋をよく使用していました。
梅鉢紋は平安時代の貴族・菅原道真が愛した梅を家紋にしたのが始まりといわれています。前田家は菅原氏の末裔を名乗ったため、梅鉢紋を家紋にしました。
前田慶次の生まれ
慶次は天文元年(1532年)~天文10年(1541年)の間に生まれたといわれています。父は織田信長の重臣・滝川一益の一族であるとされていますが、親子関係を証明する史料が残されていないため、実父が誰なのか正確には分かっていません。
養父は前田利家の兄・利久で、永禄10年(1567年)に利久が隠居すると、弟の利家が尾張国(愛知)荒子の約四千石の土地を継ぎました。このとき慶次は利久と共に荒子城を去ったといわれています。
天正9年(1581年)に、慶次は能登国を拝領した利家に仕えることになり、利久に二千石、慶次に五千石が与えられました。
前田慶次と上杉家
一説には利家と慶次は不仲であったといわれ、養父の利久が亡くなると、慶次は前田家と縁がなくなったためか出奔しています。その後は京都で浪人生活を送り、連歌会に出席するなど文化活動を行っていました。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が越後から会津120万石に移封された後、慶次は上杉家に仕え、新規召し抱え浪人の組外衆筆頭として1000石を受けます。
同年に起こった関ヶ原の戦いで上杉家は西軍として参戦しましたが敗退し、30万石に減封され米沢に移されました。このとき慶次も米沢藩に仕え、堂森(米沢市万世町堂森)で隠棲したといわれます。
前田慶次の最期・墓
隠棲後の慶次は上杉家の家臣・直江兼続と共に史記を編集したり、和歌や連歌を詠む生活を送ったようです。
慶長17年(1612年)に慶次は73歳で亡くなりましたが、慶次の亡骸を納めたといわれる寺は廃寺になっています。
堂森にある善光寺には慶次の供養塔が残されていますが、これは昭和55年(1980年)に建てられたものです。
前田慶次の逸話
慶次の実在説
前田慶次は宗兵衛、慶次郎、啓次郎など複数の名前で史料に表記されていることや、生没年が詳しく分かっていないなどの理由から実在しない人物なのではないかという説もあります。
しかし、前田家の書状に慶次の名前が記されていたり、米沢へ下向したときの慶次自筆の日記が残されているので、前田慶次は実在していると考えられています。
慶次の兜・愛馬
前田慶次は編笠形兜(あみがさなりかぶと)という南蛮帽を被ったようなデザインの兜を愛用していました。愛馬は松風といい、江戸時代中期の軍談書「常山紀談」には「ふとたくましき」馬だと記されています。
戦国時代の武士が乗っていた馬はサラブレッドではなく農耕馬で、重種といわれる筋肉質な馬です。
重種の馬は体重800kgから1tを超える馬まで個体差がありますが、身体が大きく、力持ちであることから主に農耕馬として飼育されていました。
利家と水風呂
慶次は日頃から世の中を軽んじて小馬鹿にする癖があり、それを利家にたしなめられていました。
ある時、慶次は利家に「今まで心配をかけて申し訳ありませんでした。これからは心を入れ替えようと思います。それで今度、茶を一服もてなしたいので自宅に来てください」と言います。
利家は慶次が改心したと喜び、後日家を訪ねると、慶次は「今日は寒かったので、茶の前にどうぞお風呂にお入りください」と言いました。
利家は慶次の勧めを受けて風呂に入ろうとしますが、それは氷のような冷水でした。普段温厚な利家もさすがに怒り、慶次を風呂へ連れてくるよう供侍へ怒鳴りましたが、その頃慶次は愛馬・松風に乗って国を去ったといいます。
水風呂の話は慶次の逸話で有名なものですが、史料としては江戸時代後期の随筆集「翁草」で初めて見られるため、実際に慶次が利家を水風呂に入らせた信憑性は低いといわれています。
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