大内菱

大内菱
1477年~1529年(享年52歳)
大内 義興(おおうち よしおき)は、周防国の在庁官人(地方官僚)を務めた大名です。

周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職となり、北九州の諸大名や出雲の尼子家らと戦いました。




大内義興の生まれ

義興は文明9年(1477年)、周防、長門(山口)・豊前(大分)・筑前(福岡)・安芸(広島)・石見(島根)を治めた大内家14代当主・大内政弘の子として生まれました。

幼名は亀童丸といい、長享2年(1488年)に元服すると、将軍・足利義尚の一字を賜り義興と名乗りました。

明応3年(1494年)、政弘が病気のため隠居すると、義興は家督を継承して大内家15代当主となります。

大友家との戦い

大内家は豊後の大友家や筑前、肥前の少弐家などと勢力を争っていましたが、大友政親が大内政弘の妹と婚姻し、彼女が生んだ大友義右が大友家の家督を継いだことで、大内家と大友家の関係は安定します。

しかし、明応5年(1496年)に義右が急死すると、政親が大友家の実権を握って北九州の大内領へ侵攻してきました。

ところが、船で大内領まで侵攻した大友軍は遭難し、大内軍の本拠地・長門国まで流れ着いてしまいます。

義右の死は政親が毒殺したという噂もあったことから、義興は遭難してきた政親を捕らえて切腹させました。

少弐家との戦い

明応5年(1496年)、義興は筑前の奪回を狙う少弐軍を迎え撃つため挙兵し、翌年に少弐政資・高経父子を打ち破ります。

その勢いで大内軍は肥前まで侵攻し、小城城(佐賀県小城市)で政資を包囲し落城させると政資は逃亡後、自害しました。

明応7年(1498年)には少弐軍に攻められていた九州探題・渋川尹繁を支援するため、義興は家臣・仁保護郷を派遣します。護郷は肥前基肄郡、三根郡で戦って勝利し、大内家は肥前国へ勢力を拡大させていきました。

明応8年(1500年)、前将軍・足利義尹が義興を頼って山口に入り、自らが現職の将軍であることを主張して、山口に幕府を置きます。

義興は義尹を擁して上洛しようと画策しましたが、足利義澄と側近・細川政元が後柏原天皇から義興討伐の綸旨を受けて、義興を朝敵として討伐するよう西日本の大名勢に命令が下りました。

これにより、豊前の要所であった馬ヶ岳城(福岡県行橋市)などが陥落させられたものの、後に義興の家臣・杉弘依が馬ヶ岳城を奪い返し、更に義興の討伐命令を受けていた安芸の国人領主・毛利弘元を大内軍に引き入れることに成功します。

永正の錯乱

永正4年(1507年)、義澄の側近として幕府を牛耳っていた細川政元が暗殺されると、義興は足利義尹と山口から進発して和泉国堺まで渡り、上洛を果たしました。

義尹は将軍職に復帰し、義興は管領代として幕政を行う立場となりました。また、義興は娘を義澄の次男・足利義維に嫁がせたことで、将軍家の親族ともなります。

鏡山城の戦い

義興の在京中、出雲国の尼子経久が大内領へ侵攻してくると、義興は管領代を辞して山口に帰国します。

経久は毛利元就を利用して義興の家臣・蔵田房信が守る鏡山城を攻めさせ、鏡山城は落城しました。

大永4年(1524年)、大内軍は桜尾城(広島県廿日市)、佐東銀山城(広島市安佐南区)で尼子軍を撃破し、大内軍と尼子軍の戦いは一進一退となりましたが、享禄元年(1528年)に義興は門山城(広島県廿日市)攻めの最中に病に倒れ死去しました。

義興没後、家督は義興の嫡男・大内義隆が継承しました。

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