対い蝶

1565年?~1600年(享年36・又は42歳)
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、豊臣秀吉に仕えた武将です。司法を管轄する刑部少輔を務めたことから「大谷刑部」とも呼ばれます。

関ヶ原の戦いで西軍に付き、東軍の藤堂高虎、小早川秀秋などの諸将を相手に奮戦しました。




大谷吉継の家紋

対い蝶
大谷家の家紋は対い蝶です。蝶紋の一種で、元々は平安時代から平家一門が使用していました。

戦国時代の武将では吉継の他に、織田信長や北条早雲などが蝶紋を使用しています。

大谷吉継の生まれ

吉継は永禄2年(1559年)~永禄8年(1565年)の間に生まれたとされ、幼名は慶松と名付けられました。

父は近江国(滋賀)南部の大名・六角家に仕えた大谷吉房、もしくは僧侶・大谷泰珍とする説があります。

母は高台院(秀吉の正室)の取次役を務めていた東殿で、天正元年(1573年)頃から吉継は秀吉の小姓として仕えました。

豊臣政権下

織田信長の死後、天正11年(1583年)に羽柴秀吉柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いに吉継は参戦し、長浜城主・柴田勝豊を内応させ、先懸衆として石田三成らと手柄を立てました。

その後も紀州征伐、九州征伐などにも参戦して功績を挙げ、天正14年(1586年)に三成が堺奉行に任じられると、吉継はその配下となります。

天正17年(1589年)、吉継は越前国敦賀郡2万余石を与えられて敦賀城主となり、その後も小田原征伐、奥州仕置に従軍し、軍功として2万6,944石加増され、敦賀5万石を領しました。

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵で吉継は船奉行・軍監に任じられ、三成や増田長盛らと物資輸送の手配や明との和平交渉、現地報告などを行いました。

浅井畷(あさいなわて)の戦い

秀吉没後、豊臣五大老の徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして上杉討伐軍を起こし、家康とも懇意であった吉継は3,000の兵を率いて従軍する途中、三成の居城・佐和山城へ立ち寄ります。

吉継は三成と家康の対立を止めさせようとしましたが、そこで三成から家康に挙兵することを持ち掛けられます。

吉継は家康と三成の兵力の差、軍事経験の差などを挙げて家康には勝てないと諫めたものの、三成の固い決意を打ち明けられると、吉継も三成の親友として、西軍に付くことを決意しました。

その後、吉継は敦賀城へ一旦帰還して東軍に付いた前田利長と戦います。利長は豊臣五大老・前田利家の嫡男でしたが、母・まつを家康に人質として差し出していたため、東軍に付いていました。

この戦いで吉継は東軍に付いていた諸大名に勧誘工作を行い、丹羽長重や山口宗永、上田重安ら10名以上の諸大名を西軍に取り込むことに成功しました。

関ヶ原決戦

関ヶ原古戦場・決戦地
関ヶ原古戦場・決戦地(岐阜県不破郡関ヶ原町)

慶長5年(1600年)、吉継は関ヶ原の西南方面に戸田勝成・平塚為広らと5,700人で布陣しました。吉継は病の影響で後方から軍の指揮に当たり、大谷勢は東軍の藤堂高虎・京極高知らと戦いました。

その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返り、1万5,000人の大軍が大谷勢に攻撃を仕掛けました。秀秋の離反を予想していた吉継は、小早川隊の迎撃に備えていた600の直属兵と戸田勝成・平塚為広と共に戦い、兵力で圧倒していた小早川隊を松尾山まで押し戻します。

大谷勢との戦いで小早川隊の軍艦・奥平貞治は重傷を負い、この傷が致命傷となって合戦の最中に死亡しました。

しかし、小早川隊の裏切りによって西軍に付いていた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの大名も離反し、4隊4200人が大谷勢を攻撃したことで、包囲された大谷勢は壊滅し、吉継は自決しました。(享年42歳、もしくは36歳)。

墓所

吉継の首は側近の湯浅隆貞によって関ヶ原に埋葬されたとされる説、吉継の甥で従軍僧・祐玄が米原(滋賀県北東部)に埋めたとする説があります。

吉継の墓所は敦賀城の跡地に建立された永賞寺(福井県敦賀町)、側近・湯浅隆貞の墓がある関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)に石塔が建てられています。




大谷吉継の逸話

吉継の病

吉継は10代後半から20代前半頃にハンセン病に感染し、歳を経るにつれて病状が進行していました。

関ヶ原の戦い以前に吉継が直江兼続に宛てた書状には、病が重篤化して眼病を患ったことが書かれています。

ハンセン病はらい菌が長い期間にわたって体内で増殖していくもので、感染力は極めて低いものの、当時は不治の病でした。

また、ハンセン病は癩病(らいびょう)と呼ばれ、天刑、業病、呪いなどの病気であると考えられていました。

そのため吉継は病で崩れた顔を白い布で覆っていたとされていますが、それは「関ケ原合戦誌記」など軍記物の影響で作られたイメージといわれています。

秀吉の茶会

茶道
天正15年(1587年)に大坂城で秀吉によって開かれた茶会で、豊臣諸将は茶碗に入った茶を回し飲みすることになりました。

このとき、吉継が口をつけた茶碗を諸将は病気感染を恐れて飲むふりをするだけでしたが、三成だけは茶碗の茶を全て飲み干したと言います。

これがきっかけで三成と吉継は親しくなったという逸話は有名ですが、最近では秀吉が自ら飲み干した説が有力とされています。

元々吉継はハンセン病を患っていることもあり、人前に出ることを憚って、茶会にもあまり出席しませんでした。しかし秀吉が吉継を気遣い、善意で吉継を何度茶会にも誘ったため、吉継は無碍に断る訳にもいかず出席したようです。

そのため、秀吉は「その茶は上手く点てられなかったので、自分が飲もう」と言い、茶会を開いた主人として、また諸将を戒める意味を込めて自ら茶を飲み干したといわれています。

吉継と三成

吉継と石田三成は同じ近江国の出身で同世代、共に算術に長けていたことから親友に近い関係であったとされています。

吉継と三成の親交が深かったのは、秀吉が吉継と三成を奉行に任じ、一緒に行動する機会が多かったためといわれていますが、一説には衆道関係であったとする説もあります。

吉継の娘・竹林院

吉継の娘・竹林院は、真田信繁(幸村)が真田家の人質として豊臣政権下にいる間に、信繁の正室として婚姻しました。

関ヶ原の戦い後、西軍に付いた信繁は九度山(和歌山県九度山町)に蟄居され、竹林院も随行しました。一説には、竹林院が九度山での厳しい生活を支えるために真田紐を考案し、家臣たちに行商させて家計を支えたともいわれています。

慶長20年(1615年)に信繫が戦死すると、大坂城内の屋敷にいた竹林院は逃亡しましたが、紀伊藩主・浅野長晟によって捕らえられ、家康の元に送られました。

その後、竹林院は赦免されて出家し、幕府御家人・石川貞清に嫁いでいた娘の保護を受けて、亡くなるまで京都で暮らしました。

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