1556年~1615年(享年59歳)
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、豊臣秀吉に仕えた武将です。
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられたあとは奉行として秀吉の天下統一に貢献し、秀吉没後は豊臣・徳川の取次役を行いましたが、方広寺鐘銘事件で失脚すると徳川家に仕えました。
家紋
片桐家の家紋は片桐違い矢です。
2本の矢が重なった家紋で、矢のように武器を使った家紋は武門の家系、矢を作る職人たちに好んで使われていました。
生まれ
且元は弘治2年(1556年)、近江国浅井家配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれました。
片桐家は信濃源氏の名族でしたが、その支流に当たる一族は美濃や近江へ進出し、父・直貞は浅井久政に仕えました。
浅井家は新興勢力であり浅井長政の代になる頃には片桐家は重臣の扱いを受けていたとされますが、長政は同盟相手の織田信長から離反したことで信長と対立します。
やがて信長によって浅井家の居城・小谷城が攻められると、直貞と17歳の且元は浅井方として戦いましたが、城は落城し浅井家は滅亡しました。
豊臣時代
主家の滅亡後、且元は浅井家に変わり北近江3郡の領主となった羽柴秀吉に仕えました。且元が秀吉に仕えたのは天正2年(1574年)~天正7年(1579年)の間とされ、この間に同じ近江生まれの石田三成も秀吉に仕官します。
天正12年(1584年)に近江国伊香郡で起こった賤ヶ岳の戦いで、且元は福島正則や加藤清正らと戦功を挙げたことから賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、摂津国内に3千石を与えられました。
その後、秀吉の領土拡大に伴って且元は道作・検地奉行として丹波、大和、伊予などで街道整備を行い、秀吉が九州攻めや小田原の役を行うと軍団の兵站管理に奔走します。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、弟・貞隆と出征して海路用の船の調達や海道整備などを秀吉から任命され、晋州城の戦いに参戦しました。
戦後、秀吉から功績を評価された且元は播磨、摂津、伊勢に点在して所領を与えられ1万石の大名となり、秀頼の傅役を任されます。
関ヶ原の戦い
秀吉没後、秀頼が成長するまで政務は秀吉が後事を託した大名が行うことになり、徳川家康が台頭し始めます。更に大坂城で政務を執った秀吉の妻・寧々も大坂城西の丸を家康に譲って京都に住み、政界から退きました。
秀吉が織田家に代わる流れを見てきた且元や加藤清正らは家康を支持していましたが、慶長5年(1600年)に家康が上杉征伐のため会津へ向かうと石田三成が挙兵しました。
三成が大軍を率いて大坂へ乗り込んでくると、且元は強制的に西軍に従うしかありませんでしたが、関ヶ原本戦には参加しませんでした。
戦後、且元はすぐに大坂城を出て家康に面会し、大坂へ凱旋する家康を警護して長女を家康へ人質に差し出し、更に豊臣と徳川両家の調整に奔走します。
家康にそれらの功績を認められた且元は、播磨と伊勢の所領6千石と引替えに大和国竜田2万4千石に加増されて茨木城城主となりました。
以後、且元は幼い秀頼の代行として家康の政治を補佐し、豊臣家の所領の検地や法令の施工などを行います。
徳川秀忠が2代将軍として就任し秀頼に上洛が命じられると、秀頼の母・淀殿がこれを拒否しましたが、且元が説得して会見が行われました。
方広寺鐘銘事件
慶長19年(1614年)、且元は14年かけて進めてきた方広寺大仏殿の造営をほぼ完成させ、供養式を行うことになりました。
供養式は大掛かりな式典になる予定で、且元は供養式の詳細を駿府にいる家康に報告して許可を求めましたが、京都所司代の板倉勝重の報告から鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかかり方広寺鐘銘事件が起こりました。
この事件により供養式は延期され、且元は徳川家に弁明をするも聞き入れられず、更に事件の調査を担当した本多正純と金地院崇伝が
- 豊臣秀頼の駿府と江戸への参勤
- 淀殿を江戸で人質とする
- 秀頼が大坂城を出て他国に移る
の中からどれかを豊臣に選ばせるよう要求します(一説には正純、崇伝が提案したのでなく、徳川家に追い詰められた且元自身が提案したとも)。
且元は秀頼と淀殿に条件を呑むことを迫りましたが、徳川方の条件はどれも受け入れられず、更に淀殿の側近である大野治房や渡辺糺は且元を謀殺を計画します。
織田信雄から治房らの計画を密告された且元は、弟の片桐貞隆と大坂城を退去し茨木城へ入りましたが、豊臣と徳川の取次役であった且元の退去は豊臣方からは不忠者であるとして改易が求められ、徳川方は且元を退去させた豊臣方の行いを敵対行為とし、やがて大坂の陣となりました。
大坂の陣
片桐兄弟が去った後、大坂城は秀頼に信任されていた大野治長と牢人衆の後藤又兵衛が軍備を進め、且元は家康に人質を送って幕府に従属します。
慶長19年(1614年)の冬の陣で、且元は大坂城への物資回送を禁じ、自ら兵を率いて和泉国の重要拠点・堺の確保戦や真田丸の戦いに参戦しました。
大阪城攻めでは幕府軍の大砲部隊を指揮して本丸の秀頼や淀殿近くを攻撃し、これが大坂方と講和を結ぶ一つの契機となります。
慶長20年(1615年)には病気を理由に徳川家に隠居を求めましたが許されず、夏の陣にも参戦します。大坂城の落城後、大野治長が山里丸にいる秀頼、淀殿の助命嘆願を且元に知らせ、且元は秀忠にこれを報告しましたが、助命は許されず豊臣家は滅亡しました。
戦後、且元は大坂の陣の功績から4万石に加増されましたが、肺病を患っていたため夏の陣から20日ほど後に病死、または豊臣家の滅亡を嘆いて殉死したといわれています。
且元の跡目は嫡男・孝利が継ぎ、且元の孫に当たる片桐為次が15歳で早世したことで無嗣改易となりましたが、弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続しました。
片桐貞隆
1560年~1627年(享年67歳)
片桐 貞隆(かたぎり さだたか)は、兄・且元と共に21歳で豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられました。
秀吉傘下では小田原征伐、文禄の役などに従軍した功績で播磨国内に1万石余の所領を与えられ、且元が奉行を担当すると、貞隆は武門を担当し、秀吉没後は秀頼に仕えます。
秀吉亡き後、加藤清正や福島正則ら重臣は徐々に徳川家康に接近していきましたが、貞隆は秀吉の妻・寧々と面会するなど豊臣方を支持し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大津城の戦いに西軍として参加しましたが、戦後且元と共に家康に面会し所領は安堵されました。
慶長19年(1614年)に家康の口添えで秀頼から5千石を加増された貞隆は、そのお礼として駿府の家康、江戸の秀忠を訪ねましたが、大坂に帰ると方広寺鐘銘問題が起こり、兄と共に大坂城を去って家康に仕えました。
大坂の陣後、貞隆は大和国小泉藩1万6千石の初代藩主となり、幕府は秀吉を神として祀る豊国神社を迫害しました。
幕府を恐れた人々は誰も神社に近づきませんでしたが、貞隆は豊国神社へ堂々と参詣したという逸話があり、兄と共に行動しながらも豊臣家への忠誠心は捨てていなかったともいわれています。
晩年うつ状態になっていた且元と対照的に、貞隆は若い頃から晩年まで気性の激しい性格だったといわれています。また、貞隆の子・貞昌は茶道の片桐石州流を創設しました。