1534年~1582年(享年49歳)
斎藤 利三(さいとう としみつ)は、明智光秀に仕えた戦国時代の武将です。明智家の重臣として光秀に仕えましたが、本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ死去しました。
斎藤利三の家紋
斎藤家の家紋は撫子紋です。撫子紋は美濃斎藤家が使用してきた家紋です。
斎藤道三は二頭立波という家紋を使用していましたが、それは道三自らが考案した家紋になります。
斎藤利三の生まれ
利三は天文3年(1534年)、美濃国(岐阜)白樫城主・斎藤利賢の次男として生まれました。美濃国の大名・斎藤道三と同姓ですが血縁は別の系譜であり、本来の美濃斎藤家の一族です。
利賢は斎藤道三・義龍父子に仕えた武将ですが、利三は摂津国の松山新介、次に義龍、次に義龍の重臣・稲葉一鉄、次に明智光秀へ仕えました。
利三は光秀に重用されて明智秀満に並んで明智家の筆頭家老となり、光秀の丹波平定後は1万石を与えられて丹波黒井城主となりました。
本能寺の変・山崎の戦い
天正10年(1582年)、光秀が本能寺の変を計画すると、利三を含む一部の重臣に織田信長への謀反計画を打ち明けます。利三は無謀な計画をに反対したといわれますが、最終的には主の光秀に逆らえず、謀反に加担します。
本能寺の変で信長、信忠は自害し、利三は二条城で義弟の斎藤利治を討ちました。その後、中国大返しで備中から引き返してきた羽柴秀吉と山崎の戦いで争いましたが、利三は先鋒として奮戦したものの敗北し、羽柴軍に捕縛されました。
利三は六条河原で斬首、または磔にされ死去し、利三の遺体は真如堂(京都市左京区)の墓地に埋葬されました。
斎藤利三の逸話
利三の一族
利三は二人目の正室(稲葉一鉄の娘)との間に斎藤利宗、斎藤三存、末娘の福が生まれ、福は後に江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母となり、春日局となります。
また、利三の兄・石谷頼辰の義理の妹(妻の妹)は四国の大名・長宗我部元親の正室に嫁いでいます。織田家と長宗我部家が対立し始めると、明智光秀が両家の交渉役となりましたが、信長によって四国征伐が始められると光秀が本能寺の変を起こしたため、長宗我部家は危機を免れました。
また、信長の四国遠征を巡って利三と元親がやり取りした書状が近年発見された経緯からも、光秀が本能寺の変を起こした一因には、長宗我部家滅亡を阻止する理由があったのではと考えられています。