1541年~1582年(享年41歳)
斎藤 利治(さいとう としはる)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。生涯信長と信忠に仕えて武功を挙げましたが、本能寺の変で信忠と共に死去しました。
斎藤利治の生まれ
利治は天文10年(1541年)頃、美濃(岐阜)大名・斎藤道三の末子として生まれたとされます。
幼名は新五郎といい、長良川の戦いで道三が息子の義龍に討たれると、新五郎は織田信長に仕えて元服後に利治と名乗りました。
加治田城主
永禄8年(1565年)、美濃攻略戦の一つ関・加治田合戦で斎藤龍興勢に勝利し、加治田城主となります。
その後も利治は織田軍として合戦に参加し、美濃衆、加冶田衆と呼ばれる織田軍の親衛隊を率いて天下布武に貢献しました。
天正4年(1576年)、信長が嫡男・織田信忠に家督を譲ると、利治は姉・濃姫の養子となり、以後信忠の側近として仕えます。
浅井・朝倉家との戦い
元亀元年(1570年)に起こった近江国小谷城攻めに利治は参戦し、小谷城の支城・雲雀山城を攻撃して武功をあげます。同年に起こった姉川の戦いにも利治は参陣しました。
元亀4年(1573年)の朝倉討伐(一乗谷城の戦い)にも参戦し、この際に斎藤義龍の息子・龍興は織田軍によって戦死しました。
月岡野の戦い
天正6年(1578年)、越後の大名・上杉謙信が死去すると、上杉景勝、景虎の家督争いが起こります。
これを好機とみた信長は、上杉勢力下にある越中国月岡野(富山市上栄周辺)に利治を派遣します。
利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけて上杉軍を迎え撃ち、首級360を討ち取り、3,000人以上を捕虜として勝利しました。
戦後、利治は感状と加増を与えられ信長、信忠からの絶大な信頼を得ました。
本能寺の変
天正10年(1582年)、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めの援軍に向かい京都二条妙覚寺に宿泊しました。
明智光秀による本能寺の変が起こると、利治は信忠と共に二条城へ移り奮戦します。
明智軍を防ぎきれないと悟った信忠は二条城で自刃しましたが、利治はその後も抗戦して二条城に火を放ち、明智軍を食い止めました。しかし、利治も同じ美濃斎藤家の一族に当たる斎藤利三に攻められて討ち死にしました。
斎藤利治の子孫
利治の子は義興と市郎左衛門、蓮与の二男一女がいましたが、義興と市郎左衛門は利治の家老・長沼三徳、西村治郎兵衛らによって養育されました。
後に三徳の仲介で二人は織田秀信に召し抱えられ、娘の蓮与は浅井長政の家臣・速水時久に嫁ぎました。