水色桔梗

明智光秀
1528年~1582年(享年59歳)
明智光秀(あけち みつひで)は、斎藤道三、朝倉義景、織田信長に仕えた武将です。

信長の重臣として活躍しましたが、本能寺の変で信長に謀反を起こし、織田家を崩壊させました。一時は天下人となった光秀ですが、その後、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ落命しました。




明智光秀の家紋

水色桔梗
光秀の家紋は水色桔梗です。明智軍は水色の旗に桔梗紋を記していたことから、水色桔梗と呼ばれていました。

桔梗紋は美濃大名・土岐家の家紋でしたが、土岐家は斎藤道三に敗れ滅亡しました。その後、土岐家の分家出身である光秀が桔梗紋を使用しました。

明智光秀の生まれ

明智光秀は美濃大名・土岐家支流の明智家に生まれました。父親は明智光綱、明智光国、明智光隆など諸説あります。

光秀は土岐家に代わって美濃国主となった斎藤道三に仕えましたが、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争いで明智一族の居城・明智城が義龍に攻められたため一家離散しました。

二君臣従

その後、光秀は朝倉義景に仕えましたが、13代将軍・足利義輝が暗殺された後、弟の足利義昭が義景を頼ります。

しかし義景は義昭の上洛を援助しなかったため、不信感を募らせた義昭は斎藤家から美濃を奪取した織田信長に、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請しました。

その後、光秀は義昭、信長の両属の家臣となり、永禄11年(1568年)から義昭の上洛に加わりました。

元亀元年(1570年)、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政に離反されて窮地に立つと、光秀は羽柴秀吉と共に殿(しんがり)を務めて信長を護衛しました。

元亀2年(1571年)に起こった比叡山焼き討ちでは実行部隊として功績を挙げ、近江国約5万石を与えられます。その後、光秀は坂本城の建築を開始しました。

光秀の城・坂本城

坂本城
坂本城(滋賀県大津市)

近江国(滋賀県大津市)にあった城で、比叡山焼き討ちの後、琵琶湖湖畔に光秀が築いた平城です。坂本城の建っていた土地は、西側に比叡山の山脈、東側は琵琶湖に面しており、天然の要害をそなえていました。

また、比叡山には白鳥道と山中道という近江国と山城国を結ぶ道路があったことから、交通の要所として繁栄していました。

現在坂本城のあった場所は住宅地となっていますが、ルイス・フロイスは著書「日本史」で、安土城に次ぐ名城であると記録しています。

足利幕府滅亡

やがて天下布武を以て日の本統一を考えた信長と、幕府再興を以て天下を治めようとする足利義昭は対立し、光秀は義昭と袂を別って信長に付きました。

元亀4年(1573年)に義昭が槇島城で挙兵すると信長は城を包囲し、光秀も従軍します。結果、義昭は信長に降伏して追放されたため、足利幕府は滅亡しました。

その後も光秀は信長に従って長篠の戦いや天王寺の戦い、雑賀攻めなどに参加し、天正7年(1579年)には丹波・丹後国を平定させた功で丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石の大名となります。

本能寺の変

本能寺
本能寺(京都市中京区)

天正10年(1582年)、光秀は羽柴秀吉の毛利征伐支援を命じられて出陣しましたが、その途上で光秀は信長討伐を重臣達に告げました。

重臣以外の軍勢には「信長様が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことで本能寺へ向かう」と言い、雑兵は本能寺へ到着するまで、光秀が謀反を起こすことを知らなかったようです。

光秀軍は本能寺へ至ると信長が宿泊していた本能寺を急襲し、天下人まであと一歩であった信長を自決に追い込みました。

山崎の戦い

一方秀吉は本能寺の変を知ると、毛利家と和睦して中国から引き返し、摂津国(兵庫県)と山城国(京都府)の境にある山崎の地で明智軍と戦います。

羽柴軍は備中高松城の戦いから中国大返しの影響で疲弊しており、合戦が長引くほど明智軍にとって有利な状況でしたが、秀吉軍の丹羽長秀隊・織田信孝隊が光秀本隊の側面を攻撃します。その勢いを受けて秀吉軍は明智軍を押し返し、やがて明智軍は壊滅に追い込まれました。

光秀は居城・坂本城を目指して落ち延びましたが、小栗栖の藪(京都市伏見区)で土民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺された、もしくは逃亡中に疲れ果てて家臣の介錯により自決したといわれています。




明智光秀の逸話

光秀最期の地・墓所

江戸時代に出版された「明智軍記」によれば、鑓で刺され深手を負った光秀は、しばらく進んだものの絶命したという記述があり、絶命した場所は明智藪と呼ばれています。

明智藪の北方面にある勧修寺御所内町には、里人が作った供養塔の胴塚があります。

また滋賀県大津市・西教寺には光秀とその一族の墓所、京都府宮津市の盛林寺には首塚が立てられています。

光秀生存説

光秀は山崎の戦いの後も、南光坊天海という僧侶として生きていたという生存説があります。

南光坊天海は徳川幕府の参謀を務めた人物で、いつから幕府に協力していたのか、詳しいことは分かっていません。

しかし南光坊天海が光秀と同一人物であったとすると、享年は116歳となるので、同一人物とは考えられにくいといわれています。

ただ、南光坊天海と光秀には筆跡が似ているなどの共通点や、徳川家康が祀られている日光東照宮に、光秀が使っていた桔梗紋があるなどの理由から、天海は光秀と関係の近い人間であったのではないかともいわれています。

光秀の性格

光秀の性格は、朝廷や室町幕府の権威を重んじる真面目な性格であった、計算高く、残酷で独裁的であったなど様々な説があります。

また信長が好戦的、光秀が保守的と対極なイメージを持たれることが多いですが、それらは江戸時代に作られた軍記物語による影響といわれており、実際の光秀が保守的な性格であったかは分かっていません。

宣教師ルイス・フロイスの手記によれば、光秀は「戦においては謀略を好む策謀の達人で、嘘偽りに抜け目がない」など陰湿な印象として書かれていますが、坂本城主としての治世には慈愛があり、領民に慕われていたともいわれます。

また、本能寺の変前には光秀が家法として定めた「明智家法」に、「信長様は瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出してくださった。一族家臣は子孫に至るまで、信長様への御奉公を忘れてはならない」と感謝の文を書き残していました。

光秀が信長を崇敬していたことが窺えることから、光秀が謀反を起こしたのは、朝廷に逆らい、侵略や虐殺を繰り返す信長に耐え兼ねた光秀が、正義のために信長を討ったと考えられています。

光秀の妻・妻木煕子

光秀の正室は、妻木煕子(つまき ひろこ)という武家の女性です。天文14年(1545年)頃に光秀と煕子は婚姻したとされ、光秀は20代後半、煕子は15歳であったといわれています。

一説によれば、煕子は婚約後に疱瘡にかかり左頬に痘痕(あばた)が残ったそうですが、光秀は気にせず煕子を正室に迎え入れました。

夫婦仲は非常に良かったようで、弘治2年(1556年)に斉藤義龍によって明智城が落とされたときには、光秀自身が身重の煕子を背負って越前まで逃亡したそうです。

その後、本拠を失った光秀は朝倉義景に仕えましたが、収入は無に等しく、夫婦は厳しい生活を強いられていました。そんなとき、武士の間で行われる連歌会の主催をする順番が光秀に回ってきます。

そのとき、接待費を用意するのにも厳しい状態の光秀を見かねた煕子は、自分の黒髪を切り、それを売ることで費用を工面しました。煕子の心遣いに深く感謝した光秀は生涯煕子だけを愛し、側室を抱えることはなかったといわれています。

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