1543年~1616年(享年75歳)
徳川家康(とくがわ いえやす)は江戸幕府を開いた初代将軍です。織田信長、豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦いで秀吉の家臣・石田三成を破り征夷大将軍となります。
その後、大阪の陣で豊臣家に勝利し、江戸幕府の基礎をつくりました。家康の築いた江戸幕府は15代まで継承され、およそ260年間にわたって続きました。
徳川家康の家紋
徳川家の家紋は三つ葉葵です。元々は京都・賀茂神社の神紋でしたが、賀茂神社の神職や氏子の末裔に当たるといわれる、三河国の松平家・本多家などの武家が家紋として使い始めました。
家康が征夷大将軍になると、三つ葉葵の家紋は徳川家以外での使用が禁止されます。以降、三つ葉葵は徳川幕府を象徴する家紋として定着しました。
徳川家康の生まれ
家康は天文11年(1543年)、三河国(愛知)の土豪・松平広忠の嫡男として生まれました。幼名は竹千代(たけちよ)といい、誕生日は12月26日寅の刻(午前4時頃)であったといわれています。
家康3歳の頃、母(於大)の兄・水野信元が尾張の織田家と同盟を結びます。父の広忠は駿河の今川義元に臣従したため、父母の家同士が敵対する形となり、広忠と於大は離縁し、家康は3歳で母と離れました。
天文16年(1547年)、家康は6歳で駿河の今川家に人質として送られますが、護送を担当した親族の戸田康光が離反して、敵の織田信秀の元へ送られました(近年では、広忠が織田家に敗北して家康を差し出したという説も)。
その後、織田と今川の間で人質交換が行われたため、家康は今川義元の下で人質として暮らします。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、家康は兵糧の補給を命じられていました。義元が討たれたことを知ると、家康は今川家に支配されていた岡崎城を取り戻すため撤退します。
義元亡き後の今川家は衰退し、一方の家康は今川家から独立して信長と清洲同盟を結び、今川家と対立しました。今川家との攻防戦を続けた後、永禄9年(1566年)までに家康は三河を統一しました。
三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄が遠江国・三河国へ侵攻してくると、武田軍の狙いは本城・浜松城と考えた家康は籠城戦に備えていました。
しかし、武田軍は浜松城を素通りして、その先にある三方ヶ原台地へ向かいます。これを知った家康は家臣の反対を押し切って武田軍を背後から追撃しましたが、徳川軍が三方ヶ原台地に着いた頃、武田軍は万全の構えで家康を待ち構えていました。
徳川軍も陣を整えて戦いが始まったものの、不利な形勢で戦わされた徳川軍は敗北し、家康は命からがら三方ヶ原から逃げ延びます。この戦いで徳川軍は死傷者2,000人のほか、多くの有力家臣を失いました。
翌年には再び武田軍が侵攻して東三河の要所・野田城も攻略されましたが、信玄が病没したため武田軍は三河から撤退しました。
その後、家康は信玄に奪取された旧領回復に奔走し、天正3年(1575年)に長篠の戦いで武田勝頼に勝利しました。その功績から、家康は信長より駿河国を与えられます。
伊賀越え
天正10年(1582年)、駿河を拝領した家康は、そのお礼として信長の居城・安土城を訪れます。
しかし、家康が信長の家臣と堺を観覧している間に本能寺の変が起こり、狼狽した家康は信長の後を追おうとしましたが、本田忠勝に説得されて思い止まりました。
その後、家康は服部半蔵の進言を受けて、伊賀国の険しい山道を越えて三河へ帰ります。道中、本田忠勝や井伊直政らは落ち武者狩りの一揆を倒し、時に金品を与えるなどして家康を守りました。歴戦の武将の護衛もあって、家康は命からがら三河国に戻りました。
天正壬午の乱
信長没後、織田家の領国となっていた旧武田領の甲斐国・信濃国では大量の一揆が起こり、更に信長と同盟を結んでいた相模の北条氏直が一方的に同盟を破って織田領へ侵攻してきました。
信濃小県郡・佐久郡を支配していた滝川一益は北条軍に敗れて尾張へ敗走したため、甲斐・信濃・上野は領主不在の地帯となり、家康もその土地を狙って攻め入り、北条家と対立しました。
しかし、滝川配下から北条家に転身していた名将・真田昌幸が徳川軍に付いたため、次第に戦意を喪失した北条軍は家康に和睦を求めます。和睦の条件として、上野国を北条家が、甲斐国・信濃国を徳川家が領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぎました。
家康は北条家と縁戚・同盟関係を結んだことで、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名となります。
小牧・長久手の戦い
本能寺の変後、織田家では羽柴秀吉が台頭し、織田家筆頭家老であった柴田勝家と対立していました。
秀吉が賤ケ岳の戦いで勝家を破って更に影響力を強めると、それに不満を持った織田信雄は家康に接近して秀吉に対抗しました。
天正12年(1584年)、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清したことがきっかけで秀吉と信雄・家康の争いが始まりましたが、最終的には家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とすることで和睦となりました。
小田原征伐
秀吉の関白就任後、家康は豊臣家に臣従します。臣従の証として家康は結城秀康を養子(人質)として差し出していましたが、秀吉も妹・旭を正室に送り、母の大政所を人質として徳川家に差し出すなど、家康への対応は丁重なものでした。
天正18年(1590年)、徳川家と同盟関係にあった北条家が秀吉に臣従することを反対したため、家康は三男・秀忠を上洛させて人質に差し出し、豊臣家への忠誠を示します。こうして徳川家と北条家の同盟は断たれた後、秀吉は北条家討伐を始め、家康も先鋒として活躍しました。
北条家の降伏後、家康は北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されます。
文禄4年(1595年)に豊臣秀次が亡くなると、家康はその後任として内大臣となり、中央政権の政治に参加しました。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れ、豊臣秀頼の補佐を家康に託し亡くなりました。しかし、家康は秀吉により禁止とされてきた大名同士の婚姻を行い、婚約した娘は、全て家康の養女としました。
家康の行動を専横と見た五奉行の石田三成は、慶長5年(1600年)に関ヶ原で家康と戦いましたが、この戦いに家康が勝利し、徳川家は豊臣家を凌ぐ大名となりました。
方広寺鐘銘事件
慶長8年(1603年)、家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府開祖となり、2年後には息子・秀忠に将軍職を譲って、自らは大御所と称して幕府の制度作りに務めました。
駿府で大阪の豊臣秀頼・京の朝廷の動静をうかがっていた家康は、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣家の討伐を始めます。
豊臣家は家康の勧めで方広寺を再建しましたが、境内の梵鐘の銘文に刻まれた「国家安康」の文字に「家康の名を分断して呪詛する」、「君臣豊楽・子孫殷昌」を「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味があるとして家康は非難しました。
豊臣家の家老・片桐且元はそのような意味はないと家康に弁明しましたが、家康はこれを許さず、更に豊臣家が浪人を召し抱えて軍備を増強していることを理由に挙兵しました。
★鐘銘事件は家康の言いがかり?
鐘銘事件は家康が豊臣家を追い詰めるための言いがかりとされがちですが、昔は貴人のことを諱(いみな・本名)で呼ぶことは禁じられていました。
諱は「忌み名」とも書くように、昔は他人に公開してはならないもので、家康も普段は「内府(だいふ)様」というように官職で呼ばれていました。
また、「国家安康」「君臣豊楽」の文言を考えたのは豊臣家と繋がりのあった南禅寺僧侶・文英清韓(ぶんえい せいかん)で、「家康」「豊臣」の字を文言に入れたのは、その威光が現われることを願ったためと弁明しました。
つまり「国家安康」にある「家康」の字は偶然ではなく、家康の諱と知っていて使ったと証言している訳です。
清韓に悪気はなかったのでしょうが、諱を梵鐘の銘文に刻むのは、当時の価値観で判断すれば失礼なことであるともいえます。この事件後、清韓は南禅寺を追放されて駿府で蟄居となりました。
いずれにせよ、徳川方に挙兵のきっかけを与えてしまった豊臣家は、大坂の陣でいよいよ徳川家と対決することになりました。
大坂冬の陣
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣は徳川軍約30万、豊臣軍約10万の戦いに始まり、徳川方は大軍を展開して東西南北から大坂城を攻めました。しかし、真田信繁(幸村)の築いた真田丸の猛攻撃を受けて、家康は大坂城を力攻めで落とすことを諦めます。
家康は大坂城の石垣、土塁の破壊や大砲攻撃などで大坂城を破壊する作戦に変更し、深夜に鬨の声や銃声を鳴らして豊臣軍を心理的に追い込みました。
しかし、真冬時期の戦いでもあったため次第に両軍とも疲弊し、徳川軍と豊臣軍は織田長益を通じて和睦しました。家康は和睦の条件として大坂城の惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊させ、徳川軍の脅威となった真田丸も破壊されました。
大坂夏の陣
慶長20年(1615年)、大坂で浪人の乱暴・狼藉などの報せが京都所司代・板倉勝重から家康に届くと、家康は豊臣家で召し抱えている浪人の解雇か、豊臣家の大坂移封を要求しました。しかし、豊臣家が拒否したため家康は諸大名を集めて再び挙兵します。
夏の陣では、道明寺、八尾、天王寺と各地で争いが起こりましたが、数に勝る徳川軍に豊臣軍は次第に押し切られていきます。
また、大坂城台所頭・大角与左衛門が徳川方に寝返って台所に火を付けたため、その火が大坂城にも移りました。敗北を悟った豊臣秀頼は淀殿と共に燃え盛る大坂城の一角で自決し、豊臣家は滅亡しました。
また、秀頼の遺児・国松や豊臣方の生き残りである長宗我部盛親などの武将も処刑されます。
戦後、豊臣の大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな大坂城が再建されました。
徳川家康の墓
夏の陣から翌年の元和2年(1616年)、家康は鷹狩りで外出中に倒れ、駿府城において75歳で生涯を閉じました。
家康の遺言には「江戸にある増上寺で葬儀を行い、亡骸は久能山東照宮に納め、位牌は三河にある菩提寺(大樹寺)に納めてほしい。一周忌の法要が済んだら日光に東照宮を建てて、そこに亡骸を移すように、また、京都の金地院にも京都所司代(東照宮)を造るように」と書かれていました。
東照宮は東照大権現、つまり家康をお祀りするための神社です。東照宮は全国に6か所あります。
- 日光東照宮(栃木県)…家康の御霊を祀る総本宮
- 金地院東照宮(京都府)…家康の遺髪と念持仏が納められている
- 久能山東照宮(静岡県)…家康の遺体が祀られていると伝わる。家康の手形が残されている
- 堺東照宮(大阪府)…現在は南宗寺。家康の墓があるとされている
- 芝東照宮(東京都)…家康像が安置されている
- 上野東照宮(東京都)…元は江戸城にあった東照宮で、家康、吉宗(8代)、慶喜(15代)が祀られている
家康の遺体は駿府の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、遺言通り一周忌を経て日光の東照社に分霊されました。元和3年(1617年)には「東照大権現」の神号が贈られ、江戸幕府の祖として「東照神君」、「権現様」と江戸時代を通して崇拝されました。
徳川家康の逸話
徳川家康の性格
家康は好奇心旺盛な性格で多趣味の人物です。鷹狩り・薬作りが趣味であったことは有名ですが、そのほかにも囲碁、将棋、香道、猿楽など様々な趣味を持っていました。
また新しいもの好きで、南蛮時計や砂時計、眼鏡、鉛筆、コンパスなどの舶来品を蒐集しています。関ヶ原の戦いに行くまでの道中では、南蛮胴具足を着用していたともいわれています。
徳川家康の城・江戸城
康正3年(1457年)、豊臣秀吉の命により、家臣である太田道灌が築城した城が江戸城の始まりであると「徳川実紀」に記されています。
天正18年(1590年)、小田原征伐の功績から、秀吉に関八州を与えられた家康は、駿府(静岡)から江戸城に入ります。家康が入城した当初は小規模な城でしたが、築城から時が経っていたため荒廃が進んでいました。
家康は城を回収・増築していき、大規模な普請は江戸時代に3回行われています。江戸幕府の拠点となる頃には、国内最大規模の面積を持つ城になりました。以後、江戸城は江戸幕府の中枢として200年以上機能し続けました。
明治維新後より、江戸城の本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑となっており、南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は一般開放されています。
家康の死因
①天ぷらの食中毒
家康の死因には諸説ありますが、病死と考えられています。最も有名な説は天ぷらの食べ過ぎで、家康は油ものの料理が好きであったことから、天ぷらなどの揚げ物を好んで食べていたといわれています。
そして、ある日家康が鯛の天ぷらを食べて、食中毒にかかったのが死因と考えられていました。しかし、家康が鯛の天ぷらを口にしたのは亡くなる3か月前のことだったので、食中毒が死因になったとは考えられにくいことから、信憑性の低い説とされています。
②胃がん
江戸幕府が編纂した歴史書「徳川実紀」によると、家康の病状は「みるみる痩せていき、吐血、黒色便が見られ、お腹に手で触って分かるほどの大きいしこりがある」と記されています。
この病状は胃がん患者に見られるものであり、消化管が出血していたものと考えられます。記録に残っている病状からすると、家康の死因は胃がんであったことが最も有力な説であるとされています。
徳川家康の名言
名言①
「世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ」
【意味】
「勇者は果敢に正々堂々戦うが、臆病者はあらゆる危機を回避するため、策を考えてから戦に臨む。用心できる人間の方が強敵である」
名言②
「勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る」
【意味】
「勝つことばかりで負けることを知らないと、反省する経験ができない。そして勝利に驕るので、心に隙が生まれる」
名言③
「重荷が人をつくる。身軽足軽では人は出来ぬ」
【意味】
「責任があって人は成長する。楽ばかりしていると未熟なままで、成長できない」
名言④
「あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である」
【意味】
「危ないと思う予感がしたら、無理をしてはいけない。かえって失敗を招く危険がある」
名言⑤
「いくら考えてもどうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む」
【意味】
「世の中にはどれだけ考えても答えが出ないこともある。それでも突破口を探して行動しなければ先に進めない」
徳川家康に関連するおすすめ本