武田菱

武田菱
1514~?
武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、若狭国の戦国大名で、若狭武田家7代目当主です。

同姓同名の人物が甲斐武田家にもいますが、甲斐武田家の信豊は武田信繫(武田信玄の同母弟)の次男です。

武田信豊の生まれ

武田信豊は永正11年(1514年)、若狭国(福井)守護・武田元光の嫡男として生まれ、近江国守護・六角定頼の娘を妻に迎えます。嫡男・義統は信豊が13歳のときに生まれました。

天文7年(1538年)、従弟の武田信孝を擁立した粟屋元隆に勝利した翌年、父から若狭武田家の家督を受け継ぎました。

武田家追放

天文11年(1542年)、義兄の細川晴元が三好長慶と対立すると、晴元の要請を受けて戦いましたが、有力武将の多くを失い大敗しました。

弘治2年(1556年)頃からは信豊の隠居を巡って嫡男・義統との争いが起こりましたが、信豊方に与していた弟・信高が死去すると信豊は劣勢となり、妻の実家である近江国へ逃れます。

永禄4年(1561年)には当主となった義統と和解しましたが、永禄10年(1567年)に義統は亡くなりました。義統の子で時期当主の武田元明は越前の朝倉家に連行されていたため、既に若狭支配の実権は朝倉家に握られていました。

晩年の信豊に若狭国内での影響力はほとんど無かったとされ、信豊の没年は不詳ですが、義統よりは長生したと考えられています。