武田菱

武田菱
1525~1561(享年37歳)
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、武田信玄の弟です。

武田二十四将の一人として信玄に仕え、仁愛と知勇に溢れた名将として兄や家臣たちから慕われていました。

武田信繁の生まれ

1525年(大永5年)に、甲斐国主・武田信虎の次男として生まれました。兄に武田信玄がおり、母は同じ大井夫人です。

信虎からは幼少の頃より寵愛され、兄の信玄を廃して信繁に家督を譲ろうとしていました。

これに反発した信玄は天文10年(1541年)に信虎を今川義元の下へ追放して家督を相続します。以降、信繫は信玄に仕えて御一門衆の筆頭として信玄を補佐しました。

信濃諏訪攻め

天文11年(1542年)から信玄が諏訪攻めを始めると、信繫は大将として宿老の板垣信方と出陣し、諏訪郡の平定後は信方と共に統治を行いました。

天文20年(1551年)に信濃の強豪・村上義清の居城である砥石城を攻め落としましたが、義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びたため、武田と上杉が争う川中島の戦いが起こりました。

第四次川中島の戦い

永禄4年(1561年)、武田軍と上杉軍は川中島で4度目の戦いとなり、武田軍は「啄木鳥戦法」と呼ばれる別働隊を使って上杉軍を挟撃しようとしました。

しかし、武田軍の作戦を看破していた上杉謙信は、信繁の守る武田軍本陣に急襲をしかけました。信繫ら武田軍は必死に応戦しましたが、数で勝っていた上杉軍に次第に押されていきます。

信繫も別働隊が千曲川流域へと到達するまでの時間稼ぎのために戦いましたが、別働隊が到着した頃には、既に信繫は討たれていました。

兄の信玄や家臣たちは信繫の死を嘆いたといい、遺体の胴は典厩寺(長野市)に、首は小諸城(長野県小諸市)へ埋葬されました。

武田信繫の逸話

信繫は江戸時代にも「まことの武士」と称賛されるほど人気があり、嫡子・武田信豊に残した99ヶ条にわたる「武田信繁家訓」は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれていきました。

また、信玄が甲斐を治めるために定めた「甲州法度之次第」の原型となったともいわれています。

また、武田家に仕えていた真田昌幸の息子・真田信繫(幸村)の名前は、武田信繫にあやかって昌幸が命名したともいわれています。