織田木瓜

織田木瓜
1580年~1605年(享年26歳)
織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、織田信長の嫡孫で、豊臣秀吉に仕えた武将です。本能寺の変で信長の死後、清須会議で織田家当主となりましたが、その後は織田家を凌いで台頭した秀吉に仕えました。




織田秀信の生まれ

秀信は天正8年(1580年)、織田信忠の長男として生まれました。幼名は三法師といい、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長と共に信忠が死去すると、信忠の居城・岐阜城にいた3歳の三法師は、家臣達に保護されながら清州城へ避難しました。

その後、織田家の後継者を決める清須会議によって三法師は織田家の当主となります。しかし三法師はまだ幼かったため、織田家の実権は羽柴秀吉など織田家の重臣や、同盟を組んでいた徳川家康らにありました。そして、織田家臣たちの間でも主導権争いが始まります。

秀吉は主導権争いの賤ヶ岳の戦いと小牧長久手の戦いに勝利し、豊臣政権を確立させていきました。その後秀吉が関白に就任すると、名実共に朝廷から天下人後継と認められます。

天正16年(1588年)、三法師は9歳で元服して秀信と名乗りました。既に秀吉は織田家を凌ぐ莫大な権力を持ち、織田家は衰退していきます。

岐阜中納言

文禄元年(1592年)に朝鮮出兵で秀吉の甥・豊臣秀勝が死去すると、秀信は遺領の一部である美濃岐阜13万石を引き継ぎました。その後秀信は秀勝が率いていた将兵を指揮するため朝鮮へ渡り、帰国後に従三位大納言に任命されて岐阜中納言と呼ばれるようになります。

秀信の官位は内大臣・家康や権大納言・前田利家に次ぐ第三位の地位で、豊臣政権の中核の一人となりました。

朝鮮出兵後、秀信は自領地で信長の政治体制を踏襲しつつ善政を行い、蒲生氏郷、織田信孝、豊臣秀勝らの旧臣を召し抱えました。

キリシタン大名

文禄4年(1595年)、秀信は弟の秀則と共にキリストへ入信し、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると積極的にキリシタンを保護したため、尾張美濃には信者が増加しました。

また翌年には岐阜城下に教会や司祭館を建設しましたが、一方で寺社への寄進・建立を行うなど、キリストに傾倒しない保護政策を行いました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、秀信は西軍に付いて東軍の先鋒隊と戦います。秀信は東軍先遣隊の池田輝政、福島正則らと戦いましたが、兵力差もあり秀信軍は敗北し、降伏します。この際、秀信は最期まで戦った家臣たちに対して一枚ずつ感状を送り、それに感嘆した福島正則は秀信の助命を嘆願したという逸話もあります。

しかし、秀信は西軍の主要人物として改易され、高野山に追放されました。しかし、祖父・信長が高野山と敵対していたことから後に高野山を追放され、秀信は高野山の山麓で暮らします。

下山後の秀信は地元の豪族に庇護されて暮らしたなど諸説ありますが、慶長10年(1605年)に秀信は死去しました。死因は病死説、自害説など諸説あります。秀信の墓は光臺院(和歌山県高野山)にあります。