?~1574年
織田 信広(おだ のぶひろ)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。信長の異母兄に当たる人物で、織田家連枝衆として信長に仕えました。
織田信広の生まれ
信広は尾張国(愛知)の大名・織田信秀の長男として生まれました。
しかし、母親が側室であったことから家督の相続権は信広にはなく、正室の土田御前の子・信長にありました。
小豆坂の戦い
天文17年(1548年)、織田軍と今川家・松平家連合軍との間に起こった戦いで、信広は先鋒を務めました。
信広の先鋒隊は今川先鋒の松平軍と小豆坂で戦いましたが織田軍が劣勢となり、父・信秀の本体と合流して戦います。しかし、今度は今川援軍が織田本隊を奇襲したために織田軍は敗北しました。
安祥城の陥落
小豆坂の戦いに敗北した織田軍は撤退し、信広は安祥城で守備に当たって追撃の足止めを任されました。
信広軍は追撃軍の先鋒・本多忠高を討ち取り、浮足立った今川・松平連合軍を打ち破ります。しかし、今川義元の配下・太原雪斎が再び安祥城を攻めると城は陥落し、信広は捕虜として捕らえられました。
信広は人質として織田家の元にいた竹千代(徳川家康)と人質交換されて織田家へ送還されましたが、織田家の三河進出は挫折に終わりました。
信長への謀反
天文20年(1551年)に父・信秀が死去すると信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と共に織田家当主となった信長へ謀反を計画します。
当時、信広は美濃から斎藤家が侵攻してきた際に、後詰として清洲城に入るよう信長から命令されていました。信広はこれを利用して義龍が侵攻してきた際に、清洲城で謀反を起こして義龍と共に信長を挟撃する計画を立てました。
弘治2年(1556年)、計画通り義龍が終わりへ侵攻してくると、信広は清州場へ入ろうとしましたが、入城を断られます。信広の謀反は事前に信長に知られており、義龍が侵攻してきた際、信広を城に入れないよう言明されていました。
警戒体制の清洲城の様子を見て、信広は謀反が発覚していたと悟り慌てて兵を返し、義龍も信広が清洲入りしたことを意味する狼煙の合図が出なかったので、謀反が失敗したと知り美濃へ引き返しました。
その後も信広は度々信長への謀反を起こしましたが全て信長に討ち破られ、最終的には信長に降伏しました。
長島一向一揆
信長に赦免された信広は、以後信長に仕えて永禄12年(1569年)~元亀元年(1570年)頃まで京都に滞在し、室町幕府、公家との折衝役を任されます。
天正2年(1574年)には織田家連枝衆として長島一向一揆に参加し、一揆勢が織田軍に降伏して退去しようとしたところへ信長が追撃命令を出します。
その際、一揆兵たちは捨て身の反撃に出て織田本陣に突入し、信広は一揆兵の大木兼能と一騎討ちで戦って討ち死にしました。