1535~1586(享年52歳)
荒木 村重(あらき むらしげ)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。豊臣政権時代は茶人として生き、利休七哲の一人に数えられました。




荒木村重の家紋

荒木家の家紋は抱き牡丹です。唐から伝来した家紋で、牡丹は中国で富貴長寿の象徴、百花の王とされていました。日本では公家・近衛家の正紋として使われたのが始まりといわれます。

荒木村重の生まれ

村重は天文4年(1535年)、摂津国(大阪府)池田城主・池田勝正の家臣・荒木義村の嫡男として生まれました。

勝正の家臣として仕えた村重は池田長正の娘を娶って池田家の一族となり、当時池田家を含む摂津諸大名が争っていた三好三人衆と戦いました。しかし、三好三人衆の調略に乗った村重は弟・知正を擁立して勝正を追放します。

織田家仕官

池田家の実権を握った村重は、池田家が仕えていた織田家に仕官することを三好家に許されて織田信長の配下となりました。

天正2年(1574年)、摂津国人・伊丹家の伊丹城を落とした村重は伊丹城主となり、改築して有岡城とします。その後は有岡城を拠点として摂津国の豪族を平定させ、信長に従って越前一向一揆討伐や石山合戦、紀州征伐などに参加して武功を挙げました。村重は伊丹、花隅、尼崎など35万石を有する織田家の重臣として活躍しました。

有岡城の戦い

天正6年(1578年)、村重は突如信長に謀反を起こし、有岡城に籠城しました。

村重が謀反を起こした理由は、足利義昭や石山本願寺から信長を討つよう要請されたという説、黒田孝高との謀略説、信長に刀に刺さった餅を食べさせられた怨恨説など諸説ありますが、秀吉は村重と旧知の仲である黒田官兵衛を使者として有岡城に送り、翻意を促そうとします。しかし村重は官兵衛を城に監禁し、1年間織田軍に抵抗し続けました。

やがて有岡城の兵糧が尽き始めると、村重側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返り、援軍として来た毛利家の村上水軍が信長の鉄甲船に打ち破られて窮地に陥ります。村重は単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城に逃げ延びました。

信長は村重への見せしめとして、有岡城に残っていた荒木一族を処刑して村重を追求しましたが、村重は息子の村次と共に毛利家へ亡命し、尾道に隠遁しました。

豊臣政権下

信長死後、村重は堺に戻り、大坂で茶人「道薫」と号して千利休らと親交を持ちましたが、天正14年(1586年)、堺で死去しました。また、信長による処刑から生き残った岩佐又兵衛は村重の子孫といわれ、江戸時代に浮世絵の祖となりました。

荒木村重に関連するおすすめ本