織田木瓜

織田木瓜
1547?~1583(享年37歳?)
お市の方は、織田信長の妹です。織田家と北近江の大名・浅井家との同盟のため、浅井長政に嫁ぎました。

聡明で器量良し、男勝りな性格であったといわれ、信長も「市が男であれば、良き武将となったであろう」と評したといわれます。




お市の方の生まれ

お市の方は尾張国(愛知)の大名・織田信秀の娘として生まれ、永禄10年(1567年)~永禄11年(1568年)に北近江の大名・浅井長政に嫁ぎました。

織田家と浅井家が同盟を結ぶための婚姻でしたが、夫婦仲は良かったといわれ、3人の娘を儲けます。「浅井三姉妹」とも呼ばれる娘たちは、長女は豊臣秀吉の側室・茶々(淀殿)、次女は京極高次の正室・初(はつ)・三女は徳川秀忠の正室・江(ごう)として生きました。

姉川の戦い

元亀元年(1570年)、信長が浅井家と同盟関係にある越前国の大名・朝倉義景を攻めると、長政は古くから同盟関係にあった朝倉家に付くことを選んだため、織田家と浅井家の同盟関係は決裂しました。

浅井家の寝返りを受けて一時は窮地に立たされた信長でしたが、撤退後に再び出陣して浅井・朝倉連合軍を徳川家康と共に打ち破りました。

天正元年(1573年)には浅井家の居城・小谷城が陥落し、長政が自刃しました。その際、お市の方は織田家に戻されて3人の娘と共に信長の庇護を受け、織田家で9年ほどの時を過ごします。

最期

柴田神社・お市の方像
柴田神社・お市の方像(北ノ庄城跡)

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去すると、豊臣秀吉の仲介により、お市の方は柴田勝家と再婚しました。

婚儀は本能寺の変の4か月後に岐阜城で行われましたが、天正11年(1583年)に織田家の覇権を巡って勝家と秀吉が対立し、賤ヶ岳の戦いが起こります。この戦いに勝家が敗北したため、お市の方は夫と共に越前北ノ庄城で自害しました。

お市の方の逸話

戦国一の美女

織田家は代々、美男・美女を輩出している家系で、お市の方も妹・お犬の方と共に美形であったといわれます。

また、当時男性の平均身長が155~158cm程だったのに対し、お市の方は165cm、信長も170㎝と高身長でした。

お市の方の娘・茶々も168cmあったとされ、茶々の父・長政も身長180㎝と巨漢であったといわれています。

小豆袋

姉川の戦いの際、信長にお市の方から「陣中見舞い」として袋に入った小豆が届けられました。小豆は信長の好物でしたが、袋の両端が縄で括られており、それを見た信長は別の意味に気付きます。それは浅井家が織田家から離反し、信長が浅井、朝倉家の挟み撃ちになっていることを示していました。

この逸話は後世の創作と考えられていますが、大名間の政略結婚で嫁いだ女性は、間諜(スパイ)として婚家の内情を実家に伝える役目もありました。そのため、この話しが実話であれば、お市の方は戦国時代の妻としての役目を果たしていたといえます。

生存説

北ノ庄城落城後、城は炎に包まれたため、柴田勝家とお市の方の遺骸が見つからなかったため、お市の方は生き延びていたという説があります。

お市の方は北ノ庄城の落城前に城から脱出し、勝久寺(福井県坂井市)まで落ち延びた後、織田家を財政面で支えた豪商・森田家に匿われました。その後、森田家にいた旧浅井家臣・浅井治郎左衛門の手引きでお市の方は伊賀の下友田に移り住み、慶長4年(1599年)に53歳で没したという説です。

お市の方の死後、浅井治郎左衛門は荼毘にふされたお市の方の喉仏を保管し続けたといわれ、浄光寺(三重県伊賀市)にある浅井長政供養塔に納められていると伝えられています。




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