1523~1570(享年48歳)
森 可成(もり よしなり)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。織田家に長く仕えた重臣で、槍の名手であったことから「攻めの三左」の異名で知られていました。




森可成の家紋

森家の家紋は鶴丸です。

鶴は長寿を表す家門繁栄の象徴であり、その優美な姿から家紋として用いられるようになりました。

森可成の生まれ

可成は大永3年(1523年)、森可行の子として生まれました。森家は美濃国(岐阜)の守護大名・土岐家に仕えていましたが、土岐家が斎藤道三に滅ぼされると、可成は織田信長に仕えました。

その後は織田家の家督争いでは清洲城攻めで織田信友(広信)を討ち、信長と織田信勝(信行)の稲生の戦いで信長に貢献し、今川義元との桶狭間の戦いなどに参戦しました。

信長の美濃を攻略後、永禄8年(1565年)に東美濃の入口となる美濃金山城(岐阜県可児市)を与えられました。信長上洛戦の勝竜寺城の戦いなどでは柴田勝家と共に先鋒を務め、上洛後に近江宇佐山城を与えられました。

宇佐山城の戦い

元亀元年(1570年)、織田家と浅井・朝倉連合軍による姉川の戦いが起こると、可成は浅井家臣・磯野員昌隊の進撃を阻止して信長を守りました。

その後、宇佐山城にいた可成が浅井・朝倉連合軍が再び侵攻してきた報せを受けると、連合軍の進軍を阻止するため出撃し、街道を封鎖します。

しかし織田軍1,000に対し連合軍30,000と圧倒的な兵力差があり、緒戦は何とか織田軍が連合軍を撃退したものの、延暦寺の僧兵が連合軍の援軍に駆けつけると、可成は信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死しました。可成の墓所は、聖衆来迎寺(滋賀県大津市)にあります。