1556年~1623年(享年69歳)
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、上杉謙信の跡を継ぎ当主となった人物です。あまり感情を表に出さない無口な性格で、律儀・剛毅な人物であったといわれます。
上杉の兵たちも景勝に倣い、行軍中は無駄口を叩かず行進を続けたといいます。
上杉景勝の生まれ
上杉景勝は弘治元年(1556年)、上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれます。景勝の父母は上杉家の血を引いており、永禄7年(1564年)に政景が亡くなると、叔父の越後国(新潟)大名・上杉謙信の養子となりました。
天正3年(1575年)、名を長尾顕景(ながお あきかげ)から上杉景勝に改め、謙信が「御実城様」と家臣たちから呼ばれていたことから、景勝は「御中城様」と呼ばれました。
御館の乱
天正6年(1578年)に謙信が亡くなると、景勝と長尾景虎の間で後継者争いが起こります。景虎は景勝と同様に謙信の養子ですが、元は相模の大名・北条家から人質として上杉家に来た人物です。
景勝はいち早く上杉家の居城・春日山城を占拠し、景虎は城下で謙信の養父・上杉憲政の屋敷に立て籠もりました。
この争いの間に武田勝頼が上杉に攻め込んできたため景勝は窮地に陥りますが、東上野の地と黄金を譲渡したことにより武田氏と和睦を結ぶことに成功しました。
武田家と和睦を結んだことで、景勝は勝頼の異母妹・菊姫を婚約を結びます。こうして武田家の後ろ盾を得られたため、戦局は景勝側が有利になりました。
天正7年(1579年)、景勝が景虎へ降伏を勧告すると、景虎の正室・清円院は降伏を拒み自決しました。また、景勝に和議を申し入れようとした上杉憲政と景虎の嫡男・道満丸は何者かによって粛正されます。味方を失った景虎は孤立無援の状態となり、自ら生涯を閉じました。
魚津城の戦い
天正8年(1580年)、景虎は上杉家の当主となりましたが、翌年御館の乱の恩賞問題で対立していた上杉家の家臣・新発田重家(しばた しげいえ)が織田信長と通じて造反し、さらに上杉家の後ろ盾となっていた武田家が滅亡したため、景勝は再び窮地に立たされます。
天正10年(1582年)、織田軍5万の勢力は上杉領にある魚津城まで攻め込み、城を守っていた上杉家13人の家臣は、直江兼続宛てに救援要請を送ります。
その後景勝が自ら兵を率いて援軍に駆けつけましたが、織田軍が土塁や柵、深い堀を築いていたため、魚津城への救援が妨害されました。この間に織田軍が春日山城への侵攻の動きを見せたため、景勝はやむなく撤退し、魚津城は孤立無援となりました。
落城を悟った上杉13人の武将は織田方に降伏せず、各人が耳に穴を開けてそこに姓名を記した木札を鉄線で通し、落城と共に自決しました。
魚津城が落城する前日の6月2日に本能寺の変が起こりましたが、この報せが魚津城へ届いたのは落城後の6月5日以降といわれています。これにより魚津城から織田軍は撤退し、上杉軍は反撃に出て魚津城を奪還しました。
豊臣五大老
信長没後、景勝は羽柴秀吉側に付き、小牧・長久手の戦いや小田原征伐など数々の戦に参戦します。文禄4年(1595年)には豊臣政権の大老に任ぜられ、豊臣家五大老の一人になります。
慶長3年(1598年)、秀吉の命により景勝は会津120万石に加増移封されましたが、同年8月に秀吉が亡くなりました。それ以降は徳川家康と対立関係になり、家康は大軍を率いて会津へ景勝討伐に出陣します。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり西軍が敗れたため、景勝は家康に降伏せざるを得なくなりました。翌年に景勝は兼続と共に上洛を許され、家康に謝罪したことで出羽国米沢30万石に減俸移封されたものの、上杉家の存続は保たれました。
上杉景勝の最期
米沢藩移封後、景勝は藩政確立に尽力します。慶長19年(1614年)には松平忠輝の居城・高田城の普請に参加し、同年に起こった大坂冬の陣の戦いの一つ、鴫野の戦い(しぎののたたかい)では、豊臣軍を大坂城まで追い返す功績を挙げました。
元和9年(1623年)に景勝の嫡男・千徳が定勝と名を改めるのを見届けた翌月、景勝は米沢城で亡くなりました。上杉家の家督は定勝が継承し、米沢藩上杉家は幕末まで続きました。
上杉景勝の有名な家臣
直江兼続
直江兼続は、景勝の家臣の中でも厚い信頼を受けていた人物です。主に内政、外交で功績を挙げた人物で、御館の乱では武田家との同盟を取りまとめ、景勝を勝利に導く貢献を果たします。
上杉家家老職・執政職に任命されていた兼続は、越後国の新田開発や産業の育成など、内乱で荒廃した国の復興を行っています。上杉家が秀吉の命で会津に移封されたときには、兼続にも米沢30万石が与えられました。豊臣政権下にある大名の家臣でこれほどの待遇を得たのは兼続のみで、秀吉にも認められていた兼続の有能さがうかがわれます。
秀吉の死後、徳川家康から上洛命令が出されたのを景勝を排除するための策だと見た兼続は、「直江状」といわれる書状を家康に送って反論します。その後家康が大軍を率いて会津まで出陣してきましたが、この間に兼続と呼応した石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こります。
家康は関ヶ原の戦いに向かって西上したものの、上杉軍は東軍に与した伊達政宗や最上義光らと出羽で戦いました。しかし、西軍の敗退を受けて上杉軍は撤退を余儀なくされます。その後、家康が西軍に付いた大名の減封、取り潰しを行ったため、上杉家は取り潰しの危機に直面します。このとき兼続が家康に懸命の嘆願を行ったため、上杉家は取り潰しを免れました。
米沢に移封後、兼続は景勝と共に新田開発や商工業の育成など内政に力を注ぎ、米沢藩の基盤を確立させました。
前田慶次
本名は前田利益といい、加賀百万石の祖である前田利家に仕えていました。利家と慶次は不仲であったといわれ、後に慶次は前田家から出奔します。その後、会津に入封したばかりで多くの家臣を求めていた上杉家に仕えました。
慶次が主君を景勝に選んだ理由は、景勝の名君ぶりを伝え聞いていたから、景勝の人柄に惚れ込んだからなど諸説あります。上杉家家臣になった後は関ヶ原の戦いの一つ、慶長出羽合戦に出陣し、その猛将ぶりを発揮して功績を挙げました。上杉家が米沢に移封されると、慶次もそれに付き従い米沢で晩年を送りました。
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