祇園守

祇園守
1567年~1643年(享年76歳)
立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、大友宗麟、豊臣秀吉に仕えて大名となった人物です。

関ヶ原の戦いで西軍に付き改易されますが、家康がその才を評価して江戸時代に大名として復帰し、西軍武将の内で唯一旧領回復を許されました。




立花宗茂の家紋

抱き杏葉

抱き杏葉
立花家の家紋は抱き杏葉です。抱き杏葉の家紋は豊後大友家が使っていた家紋です。

宗茂の義父であり、大友家の一族である立花道雪は同じ家紋を使用していました。

祇園守紋

祇園守
宗茂が豊臣臣下となって筑後国柳川に領地を与えられた後は、祇園守紋(ぎおんまもりもん)が立花家の御定紋となりました。そのため、立花守、柳川守とも呼ばれる家紋です。

祇園守紋は京都八坂神社の守り札を表したもので、中央の二本の筒が守り札、銀杏の葉のような飾りが、守り札に結ばれた緒を表すといわれます。

宗茂がこの家紋を使ったのは、夢の中で祇園神のお告げを受けたことが由来とされています。

祇園守紋には他にもくずし祇園守紋、扇祇園守紋、札祇園守紋などの種類がありますが、それらは代々、少しずつデザインを変えて作られた家紋です。

立花宗茂の生まれ

宗茂は永禄10年(1567年)、豊後国(大分)大友家の重臣・吉弘鎮理(高橋紹運)の長男として生まれ、幼名は千熊丸と名付けられました。

永禄12年(1569年)に高橋鑑種が討伐され家督を剥奪されると、その家名を父が継いだため、宗茂は高橋家の跡目として育てられました。

天正9年(1581年)、男児の跡取りがいなかった大友家の重臣・立花道雪が宗茂を立花家の嗣子として迎えたいと申し出ると、紹運は最初これを断りましたが、道雪から何度も請われたため、紹運はその意を容れて宗茂を道雪の養子として差し出しました。

その後、宗茂は立花家の家督を継いでいた道雪の娘・立花誾千代と結婚して婿養子となり、立花家の家督を譲られます。




九州平定

天正14年(1586年)、九州制覇を目指す薩摩の大名・島津家が筑前に侵攻し、宗茂の実父・紹運が自害しました(岩屋城の戦い)。

宗茂は立花山城で島津本陣への奇襲を成功させ、その後も善戦して敵兵を討ち取り、既に紹運との戦いで消耗していた島津軍は兵を引き上げます。

同年、島津に対抗できる軍力を失っていた大友宗麟は豊臣家に臣従し、軍事支援を請いました。そのため宗茂も豊臣傘下となり、九州平定では肥後国の竹迫城、宇土城などを陥落させました。

秀吉に代わって島津方の武将や九州の豪族らを撃退、降伏させたことから秀吉に「その忠義、武勇、鎮西一」と称賛され、
戦後に13万2000石を与えられ、大友家から独立した大名となりました。

文禄の役・慶長の役

文禄元年(1592年)から始まった文禄の役で、宗茂は小早川隆景を主将とする隊に参列し、朝鮮へ出兵しました。

日本軍は朝鮮を北上し、首都ソウルにある漢城を制圧すると、国王・宣祖は都を捨てて平壌(ピョンヤン)に逃れました。

その後、漢城会議で全羅道の攻略が割り当てられましたが、朝鮮連合軍の攻撃を受けて敗退し、全羅道攻略は果たせませんでした。

文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いでは立花隊が先鋒となり、中陣がまず明軍に当たり、その側面を先鋒本隊が奇襲する方法で明・朝鮮軍を撃破しました。

小早川隆景率いる日本軍本隊が援軍に駆けつける頃には大勢は決し、宗茂らは潰走した明・朝鮮軍を追撃しようとしましたが、隆景が敵の備えを考慮して深追いを止めさせます。

慶長2年(1597年)からの慶長の役では、宗茂は侵攻軍ではなく要所の守備を命ぜられました。

翌年秀吉が死去すると日本軍撤退の命令が下りましたが、順天倭城で小西行長軍が退路を塞がれていることを知ると、水軍を編成して救援に向かい、朝鮮水軍と戦って行長軍を救援しました。

関ヶ原の戦い・大津城の戦い

慶長5年(1600年)、宗茂は家康から東軍に付くよう誘われたものの、宗茂は西軍に付くと決めていました。

重臣・薦野増時は西軍に付けば負けると反対しましたが、宗茂は「秀吉公の恩義のため西軍に付くのであって、勝敗にこだわりはない」として参陣します。

宗茂は伊勢方面に進出して東軍の京極高次が守る大津城を攻め、養父・道雪の発案した「早込」という鉄砲を使った戦法を用いて城を銃撃し壊滅寸前まで追い込みます。

しかし、宗茂は大津城攻めのため関ヶ原決戦には参加できず、西軍敗北を知ると大坂城まで撤退しました。

大坂城到着後、宗茂は総大将の毛利輝元に家康と戦うことを進言しますが、輝元が家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に帰還しました。

帰途の道中、宗茂は実父・紹運の仇である島津義弘と同行し、家臣達は紹運の仇を討つ好機と宗茂に進言しましたが、宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言い、更に島津の護衛を申し出て義弘と友誼を結び、柳川まで帰還しました。

大名復帰

関ヶ原の戦い後、西軍に付いた宗茂は改易されて浪人となります。宗茂の才を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣になる誘いを受けましたが、宗茂はそれを謝絶し、家臣を引き連れて京都で浪人生活を送りました。

慶長8年(1603年)、宗茂は江戸に下って本田忠勝の世話で蟄居生活を送り、翌年忠勝の推挙で家康に謁見します。

宗茂の実力を知る家康は将軍の親衛隊長として宗茂に5,000石を与え、徳川秀忠の御伽衆に列せられてからは陸奥棚倉に1万石を与えられ、最終的に3万5,000石の領地高となり、大名として復帰しました。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)、大坂の陣で家康は宗茂が豊臣方に付くのを恐れて説得し、軍師参謀と警護を兼ねて秀忠の配下とさせました。

宗茂は秀忠軍の進退を指導し、豊臣方の動向や豊臣秀頼が出陣しないことを看破し、毛利勝永の軍勢を打ち破りました。

元和6年(1620年)、宗茂は幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられて旧領を回復しました。

しかし、相伴衆として秀忠に仕えた宗茂は旧領には戻らず、江戸屋敷で秀忠や家光に近侍し、本領の統治よりも幕府と地方大名との橋渡しを行いました。

寛永15年(1638年)、宗茂は家督を養子・立花忠茂に譲り、翌年江戸柳原の藩邸で死去しました。

墓所は福巖寺(福岡県柳川市)にあり、柳川城内にある三柱神社では、立花道雪と妻の誾千代と共に祭神として祀られています。




立花宗茂の逸話

勇義の将

秀吉の死後、文禄の役に出兵していた日本軍は帰国命令が下りましたが、小西行長が順天の地で退路を塞がれていました。

小西行長は奸臣の噂があり諸将から嫌われていたため、軍議では行長を切り捨てて帰国しようという意見が出ました。

しかし、宗茂は「行長も将星の一人であり、朝鮮軍に捕まれば捕虜になろう。見捨てることは武士の恥でもある」として、自分は命をかけても行長を救出すると言いました。

宗茂の言葉に島津義弘と寺沢広高が同意すると、宗茂は彼らと共に行長救出に向かい、明・朝鮮連合軍と激闘の末に行長を救出することに成功しました。

碧蹄館の戦いの際は、明の大軍を前に籠城戦を取ろうとしたところを宗茂が力説し、一気に攻勢に転じて敵を打ち破りました。

戦後、秀吉の側近・石田三成が「碧蹄館の先陣は抜群のお手柄と存じます。されども事実は必ずしも上聞(じょうぶん)に達せず、総指揮の宇喜多秀家の手柄とされています。私にお頼みあれば、実情を殿下のお伝えいたしましょう」と宗茂に言いました。

宗茂は「戦いの実情を殿下に報告するのが貴殿のお役目。特にお願いしなければ事実が伝わらないのはおかしい。賄賂の多寡で勲功にありつくことはない。御申し出の儀、断り申す」と清廉潔白な態度を示し、三成を退けたといいます。

宗茂と栗

宗茂がまだ千熊丸と呼ばれていた頃、後に婿入りする立花家と実家の高橋家は既に仲が良く、ある日両家で山狩りに出掛けることになりました。

その際、千熊丸が栗のイガを踏みつけてしまい、足の裏のイガを抜いてくれと騒ぎながら家臣に頼みました。

道雪の家臣・由布惟信は千熊丸の元に駆けつけ、「イガごときに音を上げるとは情けないことです」と言い、栗のイガを抜くどころか足に刺さったイガを千熊丸の足に食い込ませます。

余りの激痛に千熊丸は泣き叫びそうになりましたが、近くで道雪がその様子を睨みつけるように見ていたため、千熊丸は恐怖で声を上げられなかったといいます。

これは「武士の子が、怪我を負ったからといって泣き叫んではならない。戦場で大声を出せば敵に居所が知れて、味方を窮地に晒すことになる」と分からせる教訓でした。

後日、再び立花家と山道を歩いていた千熊丸が栗のイガを見つけると、「誰かあそこの栗を片付けてくれ」と言いました。

すると道雪の家臣・小野鎮幸が「若様は先日から栗のイガを恐れていらっしゃいますが、イガ栗など恐れるに足りませんよ」と素手で栗のイガを握り潰したといいます。

この逸話に登場する由布惟信、小野鎮幸は共に立花四天王の一人であり、後に立花宗茂を支える名将として活躍しました。

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