1537?年~1599年(享年62歳)
前田利家は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。始めは信長に小姓として仕えていましたが、青年時代は赤母衣衆(あかほろしゅう)と呼ばれる精鋭部隊に所属し、「槍の又左」と呼ばれていました。
本能寺の変で信長が討たれた後は豊臣秀吉に臣従し、加賀国・越中国を与えられます。後に加賀百万石と呼ばれる基礎を築き上げた利家は豊臣政権五大老に列せられ、秀吉の三男・秀頼の後見人を務めました。
前田利家の家紋
前田家の家紋は、加賀梅鉢(かがうめばち)です。梅鉢紋は平安時代の貴族・菅原道真が愛した梅を家紋にしたのが始まりといわれています。利家は菅原氏の末裔を名乗ったとされ、梅鉢紋を家紋にしていました。
梅の家紋には種類がいくつかありますが、加賀梅鉢は花弁が軸で支えられ、その間に短剣があります。そのため、幼剣梅鉢とも呼ばれている家紋です。
前田利家の生まれ
利家は尾張国(愛知)の荒子城主・前田利春の四男として生まれました。幼名は犬千代(いぬちよ)といい、若い頃の利家は短気で喧嘩早く、派手な格好を好む傾奇者であったといわれています。
清洲城主・織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いで功績を挙げ、元服して前田利家と名乗りました。
弘治2年(1556年)、信長と織田信勝による後継者争いでは信長について信勝の小姓を討ち取るなどの功績を挙げ、戦場での戦いぶりから「槍の又左」と呼ばれました。
その後、信長の親衛隊である赤母衣衆筆頭に抜擢され、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えます。
織田家出奔
永禄2年(1559年)、織田家にいた拾阿弥(じゅうあみ)という茶坊主と諍いを起こした利家は、拾阿弥を斬殺して出奔しました。拾阿弥は有能な人物で信長から気に入られていましたが、利家がまつの父(篠原一計)にもらった大切な笄(こうがい・髷を結う道具)を盗むなど、素行の悪いところがありました。
信長は利家を諭していましたが、次第に拾阿弥が増長して利家に横柄な態度を取るようになったため、とうとう利家の堪忍袋の緒が切れてしまい、事件が起こります。
利家は出仕停止となってしばらくは浪人のような生活を送りましたが、永禄3年(1560年)、無断で桶狭間の戦いや斉藤龍興との争いである森部の戦いなどに出陣し、首級を挙げた功績から信長に許されて復帰しました。
復帰後、浪人中に亡くなった父・利春に代わって永禄12年(1569年)に前田家当主となり、その後は信長の天下統一のため一乗谷城の戦い、長篠の戦いなど多くの戦に出陣しました。
天正2年(1574年)、利家は柴田勝家の与力となり、信長から越前一向一揆の鎮圧を任されます。一揆鎮圧後の天正9年(1581年)、利家は功績として能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となりました。
賤ヶ岳の戦い
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた時、利家は柴田勝家と上杉景勝の籠る越中魚津城を攻めていたため、山崎の戦いに参戦できませんでした。
清須会議では織田家の後継問題で羽柴秀吉と勝家が対立し、利家は与力関係から勝家に味方しましたが、秀吉とも旧交があったため、利家はどちらに付くべきか迷います。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで利家は柴田軍として参陣しましたが、途中で戦線を放棄して撤退し、その後勝家は敗北して北ノ庄城で自決しました。
利家の撤退は、以前から秀吉の勧誘を受けていたためともいわれています。戦後、利家は本領を安堵されて加賀の金沢城を本拠地としました。
金沢城
天正8年(1580年)に築城が開始され、最初の城主は柴田勝家の家臣・佐久間盛政でした。賤ヶ岳の戦いの戦いで盛政が秀吉に討たれた後、秀吉は利家に金沢城を与えます。
金沢城が建つ前の土地には、浄土真宗の寺院・尾山御坊(おやまごぼう)があり、寺といっても石山本願寺と同じく石垣を廻らした要塞となっていました。また加賀一向一揆の拠点となっていたため、信長によって攻め落とされます。
文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、天守や櫓が増築されました。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城となり、五代藩主・前田綱紀は大名庭園である兼六園を造らせました。
北陸道の惣職
秀吉に臣従後、利家は北陸方面の平定に尽力し、越中征伐では10万の大軍を率いる秀吉の先導役を任されました。佐々成政の降伏後、利家の嫡子・前田利長は越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増されます。
その後も利家は九州征伐や小田原征伐などに参戦して秀吉の天下統一に貢献し、徳川家康と並ぶ豊臣五大老に列せられました。
晩年
秀吉没後は遺言に従い、利家は豊臣秀頼の後見人となって大坂城に入り、家康が伏見城に入ります。その後、家康は秀吉によって禁じられていた大名同士の婚姻政策を進めたため、これに反発した利家や石田三成らは家康と誓紙を交換し、家康が向島へ退去することで和解しました。
家康との話し合い後、病状が悪化した利家の元を家康が見舞いに訪れますが、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたといわれ、最後まで家康に屈する姿勢は見せませんでした。
慶長4年(1599年)、利家は大坂の自邸で62歳で亡くなりました。利家は41歳頃からたびたび腹痛に苦しんでおり、脂ものの料理を食べた後に腹痛が悪化したということから、胆石発作が起こっていたのではとされ、徐々に衰弱していく病状から、死因は内臓系のがんか、肝硬変であるといわれています。
利家没後、家康により加賀征伐が検討されましたが、まつが人質となることで征伐は撤回されました。野田山墓地(石川県金沢市)には、前田家の墓所があり、利家・まつの墓があります。
利家の妻・まつ
永禄元年(1558年)、21歳の利家は、12歳のまつを正室に迎えました。まつの母は利家の姉で、利家とまつは従兄妹関係に当たります。11歳から32歳までの約21年間で2男9女を産み、11人の実子がいる女性は、1人の出産数が多い戦国時代でも珍しいといわれます。
利家亡き後は芳春院と名を改め長男・利長を支えました。慶長5年(1600年)、前田家に徳川家康から謀反の疑いがかけられたとき、加賀征伐を解消させるために自ら江戸へ下り、人質として14年間過ごしました(人質といっても豊臣政権の大老としての扱いであり、芳春院は公人として江戸に迎え入れられます)。
人質として過ごす間、まつは関ヶ原の戦いで西軍についた次男・利政の赦免や、五男・利孝の大名取り立てを直訴するなど、前田家のために尽力しました。芳春院の嘆願もあって利長は赦免されるはずでしたが、土壇場でその約束が反故にされたため、芳春院はショックから病に伏せってしまいます。
芳春院は京都や伊勢で保養していましたが、慶長19年(1614年)に長男・利長が死去すると金沢城に戻ることを許され、元和3年(1617年)に金沢城内で71歳で亡くなりました。
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