1527年~1561年(享年・35歳)
斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、美濃国の戦国大名です。父は戦国の梟雄・斎藤道三で、美濃斎藤家の戦国大名としての基礎を築きました。
斎藤義龍の家紋
義龍の家紋は五三桐です。桐紋は将軍家より賜る家紋であり、大名家として認められることを意味します。
父・斎藤道三は二頭立波という家紋を使用しましたが、義龍は五三桐を表紋、撫子紋を副紋として使用しました。撫子紋は美濃守護代の斎藤家が使っていた家紋で、道三が名跡を継いで斎藤姓を名乗ったことに由来します。
斎藤義龍の生まれ
義龍は大永7年(1527年)、美濃(岐阜)大名・斎藤道三の長男として生まれます。母は側室の深芳野で、幼名は豊太丸です。弟に孫四郎・喜平次、妹に帰蝶(濃姫)がいます。
天文23年(1554年)に道三が隠居した際、美濃守護代斎藤家の家督を継いで稲葉山城の城主となります。
長良川の戦い
やがて道三は義龍の弟・孫四郎や喜平次らを溺愛し、義龍は「耄者(おいぼれ・愚か者、間抜けの意味)」と評価して廃嫡しようとします。そして、正室の小見の方が生んだ孫四郎を嫡子にしようとすると、義龍は道三に対して挙兵しました。
弘治元年(1555年)、義龍は叔父の長井道利と共謀して弟の孫四郎・喜平次らを殺害させ、それを知って仰天した道三は大桑城に落ち延びました。
弘治2年(1556年)、義龍は長良川で道三と対峙しましたが、道三が下剋上を起こした経歴から道三方を支持する勢力は少なく、義龍は道三を討ちました。
美濃の戦国大名
道三は下剋上で成り上がった人物のため、反対勢力に対抗するためにも独裁的な政治を行っていました。
義龍は内乱で荒れた美濃を復興するため、貫高制を導入して所領問題を解決する、当主独断で政治を行わず合議制を取り入れるなど、美濃国を安定させる政策を行っていきます。
その統治による功績で義龍は足利幕府相伴衆に列せられ、戦国大名としての名分を得ます。また、足利氏の一門である一色家の姓名を名乗ることを許されました。
永禄4年(1561年)には左京大夫(司法、行政、警察機関)に任じられます。父殺しの汚名を避ける名目か、以降義龍は一色左京大夫と名乗りました。
しかし義龍は元々持病を抱えており、左京大夫に任じられた同年に急死しました。死因はハンセン病であったともいわれます。義龍は斎藤家の菩提寺・常在寺で葬られ、斎藤家の家督は子の斎藤義興が継ぎました。
斎藤義龍の逸話
義龍の身長
義龍は身長が6尺5寸(約195㎝)あったといわれ、馬に乗っても地に足がついてしまうほど大男であったとされます。
また、義龍の母・深芳野も美濃一と名高い美女で、身長が6尺2寸(約187㎝)あったということから、義龍の高身長は母からの遺伝とも考えられます。
義龍と信長
義龍の妹・濃姫は織田信長に嫁いでいますが、両家とも勢力拡大のため争いが続きました。
ただし、当時の織田家は駿河今川家の脅威に晒されていたため、斎藤家と織田家の間に大規模な戦は起こりませんでした。
しかし、永禄2年(1559年)に信長が上洛した際、義龍は手勢の鉄砲隊を派遣して信長を暗殺しようとしています。暗殺は失敗に終わりましたが、これは史上初の火縄銃による狙撃となります。
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いで今川義元を討って戦国時代の情勢を大きく変えましたが、義龍はその翌年に病死しました。
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