1562年~1591年(享年30歳)
北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、相模国の戦国大名です。
父・北条氏政と共に北条家の領土拡大に努めましたが、小田原征伐で豊臣秀吉に降伏し、豊臣家臣となりました。
北条氏直の生まれ
氏直は永禄5年(1562年)、相模国(神奈川)の大名・北条氏政の次男として生まれました。
母は武田信玄の娘・黄梅院で、幼名は国王丸です。兄に新九郎がいましたが、夭逝しています。
天正8年(1580年)に氏政が隠居すると、氏直は北条家5代当主として家督を継ぎました。
天正壬午の乱
天正9年(1581年)、織田信長の侵攻で武田勝頼が自害して武田家が滅亡すると、無主の国となった甲斐・信濃・上野を巡って周辺国同士の戦いが起こります。
氏直は叔父の北条氏邦と共に43,000の兵を率いて上野まで侵攻し、氏直本軍が滝川一益の軍を破って勝利します。更に敗走する一益を追って上野から信濃まで進軍し、中信地方を制しました。
その後、若神子城(山梨県北杜市)に本陣を置いていた氏直と新府城(山梨県韮崎市)に布陣していた徳川家康の戦いが起こるものの、織田信雄らの調停を受けて上野は氏直、甲斐・信濃は家康の所領となります。
更に氏直が家康の娘・督姫を正室に迎えたため、北条と徳川は同盟を結ぶことになりました。
小田原征伐
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、豊臣秀吉が台頭して関東惣無事令が発令されました。これにより私戦が禁じられたため、氏直は軍備増強に務めつつ、家康の仲介を受けて秀吉とも面会します。
しかし、天正17年(1589年)に北条家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の支城・名胡桃城を奪取する事件が起こり、これが惣無事令違反に当たるとして、秀吉との関係が破綻します。
氏直は既に名胡桃城は真田へ返還していることを弁明しますが、天正18年(1590年)から秀吉による小田原征伐が始まります。
氏直は戦いに備えて陣場の巡検や小田原城、各支城を修築していたものの、小田原の西を防衛する支城・山中城が落城すると小田原城へ籠城しました。
籠城戦は3か月続いたものの、その間に秀吉軍によって城が包囲され、支城が次々に陥落させられていきました。
氏直は和議を結ぶことを決め、氏直自身が切腹することで、将兵の命は助けてほしいと秀吉に降伏します。
氏直の申し出に秀吉は感心し、また氏直の妻が家康の娘であったため助命されました。
その後、氏直は紀伊国高野山へ謹慎となりましたが、氏直の父・氏政や叔父の氏照、北条家の重臣らは切腹を命じられました。
最期
天正19年(1591年)に氏直は秀吉から赦免され、河内及び関東1万石の豊臣家臣となります。
しかし、謹慎中の借財整理などを行う内に病没しました。死因は疱瘡であったといわれます。
氏直の死後、氏直の従兄弟である氏規の嫡子・氏盛が氏直の遺領を相続し、慶長3年(1598年)には氏規、氏直の跡を継いで1万1千石の大名となりました。
その後、北条家は河内狭山藩主として幕末まで存続しました。
北条氏直の逸話
北条氏直時分諺留
「能ある鷹は爪を隠す」ということわざは北条氏直時分諺留(ほうじょううじなおじぶんことわざとめ)より伝わることわざで、「優れた才能の持ち主ほど実力を見せびらかすことはしない」という意味です。
「氏より育ち」ということわざもあり、「氏」は代々北条家の男子が継承してきた家系を表す名称です。つまり、人格は家柄や血筋で決まるのでなく、育った環境や自分自身の努力でつくられていくもの」という意味があります。
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