1356年~1399年(享年44歳)
大内 義弘(おおうち よしひろ)は、周防国を拠点とした守護大名です。
周防の他に長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護を務め、大内家最初の全盛期を築きました。
大内義弘の生まれ
義弘は延文元年(1356年)、大内家24代当主・大内弘世の嫡子として生まれました。幼名は孫太郎といい、元服後に2代将軍・足利義詮より一字を賜って義弘と名乗ります。
天授6年(1380年)に父・弘世が死去すると、弟の大内満弘と家督を巡って争いますが、翌年に3代将軍・足利義満の支持を得て弟に勝利します。
満弘と和解後、義弘は周防、長門(山口)・豊前(大分)の守護職と大内家の家督を継承し、満弘は石見を治めることになりました。
明徳の乱
家督争いの後、義弘は義満の家臣として働き、明徳2年(1391年)には義満の命令で山陰地方で勢力を拡大させていた守護大名・山名一族と戦いました。
この戦いで義弘は山名氏清の家臣・小林義繁を一騎打ちで討ち取る武功を挙げ、翌年に武勲として山名家の旧領地である和泉や紀伊の守護職を与えられました。
応永の乱
応永4年(1397年)から義満は鹿苑寺の造営を始めようと、諸大名を参集させようとします。しかし義弘は「武士は弓矢をもって奉公するもの」として造営に関わらない姿勢を見せたため、義満と対立しました。
やがて義満は義弘の勢力拡大を恐れるようになり、義弘に上洛命令を出しますが、義弘はこれを無視して鎌倉公方の足利満兼と挙兵し、5,000の軍勢を率いて和泉の堺に籠城します。
義満は3万の兵を堺に向け、大内勢は圧倒的な兵数で攻めてくる幕府軍と戦ったものの、火攻めを行われると一気に劣勢となり、多くの死者を出し、義弘も死を覚悟して戦い続けましたが、幕府軍の畠山満家に討ち取られました。
義弘の墓所は瑠璃光寺(山口県山口市)にあり、瑠璃光寺五重塔の下に義弘が葬られたといわれます。
五重塔は嘉吉2年(1442年)頃、義弘の弟で次代大内家当主となった大内盛見が建てさせたといわれ、国宝に指定されています。また、義弘が戦死した堺にある本行寺にも供養塔が建てられています。
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