丸に竪木瓜

滝川一益
1525年~1586年(享年62歳)
滝川一益(たきがわ かずます)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。

長篠の戦いや武田征伐など数多くの戦に参戦し、織田四天王の一人に数えられました。鉄砲の名手として知られ、長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮官を任されています。




滝川一益の家紋

丸に竪木瓜
滝川家の家紋は丸に竪木瓜(まるにたてもっこう)です。木瓜紋の一種で、一益の主君・信長も木瓜紋をよく使っていました。

縦に細長く描かれるのが特徴で、上から見た鳥の巣のような形に見えるため、子孫繁栄を表すといわれています。

滝川一益の生まれ

火縄銃
滝川一益の父は近江国(滋賀)甲賀郡の国人・滝川一勝か滝川資清といわれており、この2人は同一人物であるとも考えられているので、正確な父親は定かではありません。

一益は甲賀出身という説のほか、伊勢あるいは志摩出身なのではないかという説もあります。また、諱(いみな)も一益(かずます)と一般に呼ばれていますが、「寛永諸家系図伝」には「いちます」と記されており、「いちます」と呼ぶのが正しいという説もあります。

ただし、当時諱を音読みさせる例はあまりなかったため、どちらの呼び方が本当に正しいのか、正確には分かっていません。

一益は幼年より鉄砲の名手として知られ、青年時代には堺で鉄砲の射撃・製造技術を学んでいたようです。そのため鉄砲の腕前や知識を買われ、織田家に仕官することになったといわれています。




織田四天王

永禄10年(1567年)と永禄11年(1568年)に行われた伊勢攻略で、一益は伊勢北部に勢力を持っていた豪族集団・北勢四十八家を滅ぼすなど、織田軍の先鋒として活躍しました。

天正2年(1574年)には長島一向一揆の鎮圧軍として九鬼嘉隆と共に参戦し、水軍を率いて海上から射撃援護を行います。この功績により、一益は北伊勢8郡のうち5郡を拝領されました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは鉄砲隊の総指揮を執り、その後も天王寺合戦、紀州征伐、有岡城の戦いなどの戦に出陣します。数々の武功を挙げた一益は、戦上手の指揮官として織田家四天王の一人に数えられました。

清須会議

天正10年(1582年)、本能寺の変によって信長が横死すると、一益の治める上野に相模の北条家が侵攻してきました。

神流川の戦い(かんながわのたたかい)と呼ばれるこの戦いで一益は最終的に敗北し、撤退を余儀なくされます。

また、一益の撤退中に清須会議が行われたため、一益不在の中で織田家の後継者が決定してしまいました。重要な会議に参列できなかったことから、織田家での一益の影響力は一気に低下してしまいます。

豊臣政権下

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで一益は柴田勝家に付き、伊勢で羽柴秀吉軍と交戦し続け善戦を見せていましたが、勝家が北ノ庄城で敗れて自決したため一益は降伏します。

敗軍の将となった一益は領地を没収され、京都妙心寺で出家し、丹羽長秀を頼って越前国に蟄居する身となりました。

天正12年(1584年)、秀吉の権力拡大を良く思わなかった織田信雄徳川家康が、秀吉に反旗を翻す小牧・長久手の戦いが起こります。

この戦いで秀吉から招集命令を受けた一益は参戦し、旧領の蟹江城を陥落させました。しかし家康軍に包囲されると降伏を余儀なくさせられ、一益は船で伊勢まで逃げ延びます。

晩年

その後、一益は秀吉から参戦の約定として三千石を与えられ、次男の滝川一時にも1万2千石が与えられます。ただし、嫡男の一忠は敗戦の責任として羽柴秀長の元に追放されました。

天正18年(1590年)から秀吉が行った小田原征伐など、一益は東国の外交を務めながら余生を過ごし、天正14年(1586年)に62歳で亡くなりました。




滝川一益の逸話

忍者説

近江の武家・六角家に厚く信頼されていた甲賀二十一家に滝(多喜)家という一族があります。甲賀二十一家は後の甲賀流忍術の中心となった一族です。一益は甲賀出身であることや、前半生についての記録が定かではないことから、甲賀の忍びだったのではないかという説もあります。

また、豊臣政権の三大老と呼ばれた中村一氏は甲賀二十一家・滝家の出身であるともいわれ、一益と同族であるという説もあります。

茶器・珠光小茄子

天正10年(1582年)、武田征伐で武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取る大きな功績を挙げた一益は、上野に隣接する信濃小県郡・佐久郡の二郡を与えられます。

しかし一益は領地よりも、信長が所有していた「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」と呼ばれる茶器を賜りたいと望みました。信長から茶道具を下賜されるのは、重臣として認められることを意味していました。

しかし信長にそれを断られたため、茶の師匠である三国一太郎五郎に宛てた手紙で「褒美に珠光小茄子を所望したが、遠国を与えられ茶の湯の冥加も付きてしまった」と悔しさを滲ませる一文を書き残しました。後に、珠光小茄子は本能寺の変で焼失します。

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