1458年~1541年(享年84歳)
尼子 経久(あまご つねひさ)は、出雲国の守護代です。出雲の支配・安定を目指して、主に備後、安芸の勢力と戦いました。
尼子経久の生まれ
経久は長禄2年(1458年)、出雲国(島根)守護代・尼子清定の嫡男として生まれました。
幼名は又四郎といい、文明6年(1474年)から人質として主君・京極政経の京都屋敷へ送られ、滞在中に元服して政経の一字を賜り、経久と名乗ります。
5年後に京都での滞在生活が終わって出雲へ帰り、文明10年(1478年)頃までに父から尼子家の家督と出雲の守護代職を相続しました。
守護代罷免
尼子当主となった経久は、その後主君・京極政経の寺社領を横領し、幕府から段銭(臨時)徴収の命令が出てもこれを拒否して独自に権力基盤を築いていきました。
しかしこれらの行動が原因となって、尼子家の勢力増大を恐れた幕府・守護・国人らは、公役怠慢として経久から守護代の職を剥奪しました。
大名復帰
その後、経久は自分を追放した首謀者である出雲の国人・三沢氏の下へ腹心を送り込み、虚報により三沢氏を誘い出す謀略を用いて攻撃し降伏させました。
また、他の出雲の国人らも傘下に収めて出雲で勢力を拡大させていき、近江で起こった京極家のお家争い(京極騒乱)に敗れた京極政経が没すると、経久は正式に出雲守護代にして京極家から独立しました。
富田城を取り戻した経久は、その後吉川経基の娘と婚姻し、尼子政久・尼子国久・塩冶興久らが生まれました。
鏡山城の戦い
独立を果たした経久でしたが、出雲と隣接する国人領主らと対立し、永正17年(1520年)に西出雲を支配すると、備後の山内家や安芸の宍戸家などと争いになりました。
出雲支配を安定させるため、大永3年(1523年)、経久は大内義興の安芸での拠点・鏡山城(広島県東広島市)を安芸の国人・毛利元就に命じて攻めさせました。
元就は城主・蔵田房信の叔父である直信を寝返らせる謀略を行い、房信は自害に追い込まれて鏡山城は落城しました。
塩冶興久の乱
享禄元年(1528年)から経久は備後へ侵攻しましたが、享禄3年(1530年)に経久の三男・塩冶興久(えんや おきひさ)が、尼子軍に反旗を翻します。
興久は出雲源氏の嫡流・塩冶家の養子に出されていましたが、備後の大名・山内家や出雲大社などの諸勢力を味方に付けて反乱を起こしました。
興久が主導する反乱は4年続きましたが、天文3年(1534年)に反乱軍が鎮圧されると、山内家と尼子家は和睦して興久は甥・尼子晴久の攻撃を受けて自害しました。
最期
天文6年(1537年)、経久は弟の尼子久幸に家督を譲ろうとしたものの、久幸が辞退したため、家督は嫡孫の晴久に譲りました。
晴久に家督を譲った後も経久は後見を続け、大内家が所有していた石見銀山を奪取しましたが、後に石見銀山は大内家に奪回されてしまいます。
更に吉田郡山城の戦いで大内家の援軍を得た毛利元就に敗北し、尼子家は安芸での基盤を失いました。
こうして安芸で元就が台頭し始めた頃、天文10年(1541年)に経久は月山富田城で亡くなりました。経久の墓所は洞光寺(島根県安来市)にあり、父・清定の墓石と並んで祀られています。
尼子経久の逸話
中国の三大謀将
尼子家が台頭する基盤を作った経久は文武両道の人物で謀聖(ぼうせい)と呼ばれ、安芸の毛利元就や備前の宇喜多直家と並んで「中国の三大謀将」とも称されています。
また、経久は思いやりのある人物で、冬は自分の着物を家臣に分け与えていたため、小袖一枚で過ごしていたといわれています。
更に家臣が経久の持ち物を褒めると、それをすぐに家臣へ与えてしまう人で、家臣たちも気を遣って経久の持ち物を褒めず眺めるだけにするようしていたといいます。
あるとき家臣の一人が庭の松の木なら大丈夫だろうと思って褒めたところ、経久は松の木を掘り起こして家臣に与えようとし、家臣たちが慌てて止めたものの、経久は松の木を薪にして家臣に渡しました。
立派な松の木だったので家臣達はもったいないと言いましたが、経久は気にしなかったといいます。
こうした逸話から、経久は「天性無欲正直の人」とも評されています。
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