1538年~1590年(享年53歳)
北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、関東一帯を支配した戦国大名です。父・北条氏康の後を継いで勢力拡大に務めました。
北条氏政の家紋
北条家の家紋は三つ鱗です。三角形が3つ重なって大きな三角形となる形で、大蛇(龍)の鱗を表しています。
北条氏政の生まれ
氏政は天文7年(1538年)、相模国(神奈川)の大名・北条氏康の次男として生まれました。兄・新九郎がいましたが夭逝したため、氏政は世子となります。
天文23年(1554年)に氏康が武田信玄、今川義元と甲相駿三国同盟を結ぶと、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えました。永禄2年(1559年)に氏康が隠居すると、氏政は北条家の第4代当主となりました。
小田原城の戦い
永禄4年(1561年)、関東・南陸奥の諸大名を率いて上杉謙信が小田原城を包囲しました。しかし盟友・武田信玄の支援もあり、上杉軍は籠城戦で上杉軍に対抗して撃退しました。
第2次国府台合戦
永禄7年(1564年)に起こった里見義弘との戦いでは、里見軍の背後を攻撃して勝利し、上総国(千葉県)に勢力を拡大しました。
更に武蔵岩槻城主・太田資正・氏資親子を追放し、武蔵国の支配権を確立しました。
三船山の戦い
永禄9年(1566年)に上野国(群馬県)の由良成繁が氏政に帰順し、北条家は上野国にも勢力を拡大させました。
しかし、翌年に里見義堯・義弘らが上総国の奪還を目指して侵攻し、氏政も対抗しましたが、旧里見配下の国人が里見軍に内通したため義堯に敗退し、上総国の支配権を失いました。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が死去すると、嫡男・今川氏真は没落しました。氏真は氏政の従兄弟で、氏政の妹・早川殿の夫でもあるため義弟に当たります。
氏政は掛川城(静岡県掛川市)に籠城していた氏真を保護し、自分の次男を氏真の猶子(ゆうし・兄弟や親族の子を一族に迎えること)とすることで駿河の領有を図ります。
また、上杉謙信へ弟の三郎(後の上杉景虎)を養子として差し出し、越相同盟を結んで上野国の支配領域を割譲しました。これにより武田信玄との関係が悪化したため、氏政は愛妻・黄梅院と離縁することになります。
三増峠の戦い
永禄12年(1569年)に信玄が小田原城まで侵攻してくると、氏政は父・氏康と共に籠城して武田軍を撃退しました。
北条軍は撤退する武田軍へ追撃をかけたものの、武田軍は荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指しました。そのため武田軍に追いつくことはできず、帰国を許してしまいます。
その後、信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗しますが、駿河の諸城が陥落させられていく間に氏康が病に倒れ、戦線を後退しました。この機に武田軍は侵攻を続けたため、駿河は信玄によって支配されることになります。
甲相同盟
元亀2年(1571年)に氏康が病没すると、氏政は信玄との同盟を復活させ、謙信との越相同盟を破棄しました。これにより氏政と謙信の戦いが再び始まり、利根川で対陣します。
氏政は上杉方に付いた武将たちが守る関宿城(千葉県野田市)、小山城(栃木県小山市)などを攻め落として下総国の大名・結城晴朝を恭順させたため、氏政は上杉方の勢力を関東から一掃させることに成功しました。
御館の乱
天正6年(1578年)に謙信が亡くなると、後継者を巡って謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の争いが起こります。
氏政は景虎を支援するため兄弟の氏照、氏邦らを越後国に派遣し、同盟者の武田勝頼にも援軍を依頼しました。
勝頼は調停役として景勝と景虎の争いを止めさせましたが、景虎支援のため出兵した勝頼は景勝と和睦を結んでしまいます。
また勝頼の撤兵後に景勝・景虎の和睦は破綻し、天正7年(1579年)に景勝が乱を平定させ、敗北した景虎は自害しました。
景虎の死を受けて氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国へと侵攻します。しかし、上野下野国衆が武田方に転じたため氏政は劣勢に陥り、織田信長に臣従を申し出ました。
天正10年(1582年)に起こった甲州征伐で、滝川一益を軍艦とする織田軍が武田領へ侵攻すると、北条家もこれに呼応して武田領に侵攻しました。勝頼は天目山まで逃げ延びた末に自害し、甲斐武田家は滅亡しました。
神流川の戦い
天目山の戦いが起こった同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、関東管領として上野西部と信濃国の一部を与えられていた滝川一益と争い、上野国の奪還を狙います。
氏政は56,000といわれる大軍を上野国に差し向け、一益を敗走させ、一益を追って信濃国まで侵攻し、真田昌幸らを従属させ信濃東部から中部を占領しました。
その後、国主不在となっていた甲斐でも徳川家康と争いましたが、家康の娘・督姫を氏政の息子・氏直に嫁がせることで和睦が成立しました。
天正11年(1583年)に氏政は関東の身分秩序の頂点に立ち、関東にいた反北条連合が北条に従属するか、抗戦するかの情勢となります。
天正13年(1585年)には佐竹義重・宇都宮国綱らと共に反北条勢力を攻める下野侵攻を開始し、下野国の南半分を占領しました。
北条家の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野・常陸・下野・駿河を合わせて240万石の大大名となりました。
小田原征伐
天正15年(1587年)に豊臣秀吉は大名間の私戦を禁ずる惣無事令を発布しました。
しかし、天正18年(1590年)、氏邦(氏政の弟)の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸の城である名胡桃城を奪取したため、これが惣無事令に反するとして関係者の引き渡し・処罰を秀吉は求めましたが、北条側はこれを拒否しました。
秀吉は北条家討伐のため小田原に兵を進め、支城を次々と陥落させ、小田原城を完全包囲すると、北条家は降伏しました。秀吉は当時北条家当主となっていた氏直は家康の婿でもあったため高野山に流罪とし、氏政と氏照(氏政の弟)には切腹が命じられました。
北条氏政の墓・辞世の句
氏政と氏照の墓は神奈川県小田原市内にあり、氏政・氏照が切腹した際に座っていたと伝わる「生害石」があります。
【辞世の句】
1.「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
2.「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
【現代語訳】
1.私の身は今消えてしまうが、これをどう思えばいいのか。無より生まれ、無に帰るということなのだろう。
2.雨雲を覆う月も、私の胸の霧も秋風に払われて、思い残すことは何もない。
北条氏政の逸話
汁かけ飯
あるとき、氏政が食事のときに味噌汁を飯にかけましたが、味噌汁が足りなかったのでもう一度かけなおしました。それを見た父・氏康は「毎日飯にかける味噌汁の量も量れぬのでは、領国や家臣たちの考えを推し量ることもできないだろう」と嘆息したといいます。
この逸話は後世の創作といわれていますが、氏政が最終的に北条家を滅亡させたとして有名な逸話になりました。
麦と氏政
ある時、氏政が農民が麦刈りをする様子を見て、「あの取れたての麦を今日の飯にしよう」と言ったといわれ、麦は脱穀や精白をしなければ食べられないので、氏政は無知であるということを示す話です。
この逸話は「甲陽軍鑑」(甲斐武田家の史料)にあり、実際に氏政が麦の話をしたと実証できる史料はないので、武田信玄にとって、氏政を取るに足らない存在であったと表現するために書かれた話ともいわれています。
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