1503年~1573年(享年71歳)
島津 勝久(しまづ かつひさ)は、薩摩の戦国大名・島津家の14代当主です。
薩摩周辺の大名や豪族の反乱が相次ぐ頃に島津の家督を継ぎ、島津一族の家督を争って戦いました。
島津勝久の生まれ
勝久は文亀3年(1503年)、薩摩国(鹿児島)島津家11代当主・島津忠昌の三男として生まれました。
永正16年(1519年)、兄で13代当主の島津忠隆が死去すると、急遽家督を継いで当主となります。勝久が家督を継いだ頃、島津宗家の勢力は弱体化しており、勝久の妻の弟・島津実久が次第に宗家の実権を握ろうとします。
大永6年(1526年)、島津宗家の勢力挽回のため、勝久は島津分家の伊作家に協力を求めて伊作忠良の子・島津貴久に宗家の家督を譲りましたが実久はこれに反対し、貴久の居城・清水城(鹿児島市清水町)を落として勝久を再び薩摩守護に復帰させました。
島津の家督争い
勝久は実久に迎えられて再び国政を執ろうとしますが、最終的には島津歴代の家臣を遠ざけて遊興にふけり、政務を怠るようになります。
勝久の態度を重臣らは諫めましたが勝久はこれを聞き入れなかったため、家老・川上昌久が奸臣・末弘忠重を誅殺しました。
勝久は一時、大隅根占(南大隅町)に逃れましたが、その後、昌久を切腹に追い込んだため実久の怒りを買い、実久は勝久を島津家から排除しようと、勝久を襲撃しました。
勝久が帖佐へ逃亡すると、実久が一時的に薩摩守護職となりましたが、その後勝久は忠良・貴久親子と和睦して加世田別府城の戦いで実久の軍を破りました。
やがて実久の勢力は徐々に衰退し、島津宗家も貴久を当主として擁立する方向へ傾いたため、勝久は母の実家である大友家を頼って豊後国へ亡命しました。
天正元年(1573年)に勝久は豊後で死去し、勝久の長男・島津忠康は薩摩へ戻り、次男以下の一族は大友家に仕え、大友家の改易後は徳川家に仕えました。