五七桐紋

五七桐紋
1540年~1591年(享年52歳)
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが)は、豊臣秀吉に仕えた武将です。

秀吉の異父弟で百姓出身でしたが、23歳から秀吉に使えました。




豊臣秀長の生まれ

秀長は天文9年(1540年)、秀吉の異父弟として生まれました。永禄7年(1564年)頃から秀吉に仕えて、合戦に参加する秀吉に代わり城代役を務めます。

天正元年(1573年)頃、藤堂高虎が秀長に仕官し、高虎は秀長が亡くなるまで仕えました。

出石城主

天正5年(1577年)から織田信長の命令で中国攻めが行われ、秀吉が総司令官となると、秀長は山陰道、但馬国平定の指揮を任され、竹田城(兵庫県朝来市)が陥落すると城代を務めました。

天正8年(1580年)に但馬を平定すると、秀長は出石城主(兵庫県豊岡市)となります。

郡山城主

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、秀吉は中国大返しを行い明智光秀を討ちました。この戦いでは、秀長は黒田孝高と天王山の守備を担当されました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後、秀長は播磨・但馬の2ヶ国を拝領して姫路城主となり、美濃守に任命されました。

天正13年(1585年)、秀吉の命令で四国攻めが行われると、秀長は秀吉の代理として総大将となり、長宗我部元親を降伏させた功績で大和を加増されて100万石となり、大和大納言と称されて郡山城(奈良県大和郡山市)に入城しました。

九州平定

天正15年(1587年)の九州平定で、秀長は日向方面の総大将となり、高城(宮崎県木城町)を包囲しました。

島津義弘が豊臣軍・宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けましたが、藤堂高虎・戸川達安らが合流して島津軍の夜襲を打ち破りました。

その後、島津家久が秀長に講和を求めて日向方面の戦いは終息します。

豊臣秀長の最期

天正17年頃から秀長は体調を崩し、天正19年(1591年)に郡山城内で病死しました。

家督は秀長の甥・豊臣秀保が継ぎましたが、秀保が17歳で夭逝したため、秀長の家系は断絶しました。秀長の墓は豊國神社(大阪市中央区)で秀吉と祀られています。

豊臣秀長の逸話

秀吉と秀長

秀長は温厚、寛大な性格で、諸大名と秀吉の仲介を担い、秀吉や家臣たちから信頼されていました。

また、秀吉が兄であることを鼻にかけることもなく真面目な性格で、人望が厚い人だったといわれています。

秀長の治めていた大和国は寺社勢力の多い地域でしたが、秀長の統治時代に大きな争いが起こらなかったことから、内政にも優れた手腕を発揮した人物と評価されています。

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