丸に十字

丸に十字
1537年~1592年(享年56歳)
島津 歳久(しまづ としひさ)は、第16代当主・島津義久の弟です。兄の義久、義弘を支えて島津の九州制覇を目指しました。

左衛門尉(さえもんのじょう)と名乗っていたことから、左衛門尉の唐名である「金吾様」とも呼ばれていました。




島津歳久の生まれ

歳久は天文6年(1537年)、薩摩国(鹿児島)大名で島津家の第15代当主・島津貴久の三男として生まれました。

天文23年(1554年)、17歳の時に兄の義久義弘と大隅国の岩屋城攻めで初陣して勝利し、永禄6年(1563年)には薩摩吉田城(鹿児島市東佐多浦町)の城主となり、44歳までの18年間吉田城を居城としました。

虎居城主

吉田城主となった歳久は、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を行いました。

元亀元年(1570年)、北薩摩に勢力を広げていた祁答院良重(けどういん よししげ)が妻(島津の分家・島津実久の娘)に暗殺されると祁答院家の勢力は急速に衰退していきます。

また、祁答院家に仕えていた入来院家、東郷家などが帰順したため、島津家が北薩摩を平定しました。

天正8年(1580年)、歳久は平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)の1万8千石を加増され、虎居城(現・宮之城屋地)に移り住みました。

歳久は亡くなるまで虎居城を本拠地としたため、歳久の直属軍は祁答院衆とも呼ばれました。

九州征伐

天下統一を進める豊臣秀吉が九州征伐に遠征してくると、島津軍は豊臣軍に抗戦したものの、最終的には降伏します。

歳久は降伏に納得がいかず、秀吉が陣を移動するため籠に乗っている最中に家臣に矢を射かけましたが、秀吉の駕籠と見せていたものは空駕籠だったため、秀吉は助かりました。

文禄元年(1592年)、豊臣に臣従した島津家は朝鮮出兵に出陣するよう秀吉から命令が下りましたが、歳久は中風を患って出陣できませんでした。

更に島津家臣・梅北国兼が秀吉に反乱を起こし、その反乱軍の中に歳久の家臣が多く参加していたことから、歳久は秀吉にその責任を追及されました。

また九州平定で秀吉の乗る籠に弓を射かけたり、戦に出陣しないといった態度を以前から反抗的と見ていた秀吉は、兄・義久に追手を差し向けさせて歳久を追討しました。

最期

歳久は島津の家老・町田久倍率いる追手軍と戦いになりましたが、その最中に自害しようとします。

しかし、病気で半身不随となっていたため上手く刀を握ることができず、「誰か首を取れ」と歳久が言い、原田甚次という侍が介錯しました。

歳久は島津当主の実弟であり、歳久は秀吉に謀反を起こす気はないという遺書を残していたことから、追手軍も歳久の死を嘆き、槍や刀を投げ捨てて号泣したといいます。




島津歳久の逸話

平松神社と歳久

歳久は亡くなる前に「女は子供を産むときに、死ぬような痛みを味わう。死後は、そうした女の苦しみを救ってやりたい」と言ったとされ、そこから安産の神様として平松神社(鹿児島県鹿児島市)で祀られています。

境内に隣接する墓地には、島津歳久と共に殉死した27名の墓石や、関ヶ原の戦いで義弘と共に戦った家臣・川上忠兄の墓があります。

西郷隆盛と歳久

歳久は旧薩摩藩内で藩士たちから「戦神」として崇敬されており、江戸時代~幕末は歳久の墓所がある心岳寺(現・平松神社)詣りが盛んに行われていました。

安政の大獄で錦江湾に追い詰められた西郷隆盛は、小舟に同乗していた僧・月照に歳久の故事を語った後、心岳寺の方角へ手を合わせて入水したともいわれています。

金吾様踊り

祁答院領(鹿児島県さつま町)には現在も歳久を祀る神社が町内の各地にあり、大石神社(鹿児島県薩摩郡さつま町)では、毎年9月に行われる秋季例大祭で「金吾様踊り」(金吾は歳久の官職名)が奉納されています。

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