五七桐紋

豊臣秀吉
1537年~1598年(享年62歳)
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、織田信長に仕えた武将です。信長の死後、その業績を継いで天下統一を達成しました。

「人たらし」ともいわれ、人の心を掴むことが上手い人物であったといわれています。




豊臣秀吉の家紋

五七桐紋
豊臣家の家紋は五七の桐です。桐紋の一種で、秀吉が天皇から賜った家紋であることから、秀吉の地位の高さを表す家紋でもあります。

秀吉は元々百姓出身のため、武家に縁戚はいません。そのため、桐紋や豊臣姓を多くの家臣に与えて、武家を味方に付けていきました。

豊臣秀吉の生まれ

秀吉は天文6年(1537年)、尾張国(愛知)で百姓の子として生まれ、はじめは木下藤吉郎(きのした とうきちろう)という名前でした。

若い頃から出世を夢見ていた藤吉郎は、当時尾張を治めていた織田信長に仕えることを決心し、天文23年(1554年)頃から奉公人として信長に仕えます。

ねねとの結婚

信長に仕えた秀吉は、 清洲城の普請奉行などを率先して引き受けて成果を挙げ、次第に織田家中で頭角を現していきました。

永禄4年(1561年)、秀吉は信長家臣で杉原定利の次女・ねねと結婚します。ねねは尾張出身の女性で、秀吉がまだ藤吉郎と名乗っていたときに出会いました。

身分の違いからねねの実母・朝日殿に婚姻を反対されていましたが、ねねの兄・杉原家定が自分も秀吉と養子縁組をすると諭したため、ねねは14歳で秀吉に嫁ぎます。

秀吉の出世後、ねねは正室として「北政所(きたのまんどころ)」もしくは「高台院(こうだいいん)」と呼ばれ、武家の家政を取り仕切りました。

長浜城主

長浜城
長浜城(滋賀県長浜市)

永禄9年(1566年)の岐阜攻略戦で、秀吉は墨俣に一夜城を築き上げたとされ、美濃国の斎藤家の居城・稲葉山城の陥落に大きく貢献しました。

元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐で浅井長政が離反すると信長は窮地に立たされましたが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務めて信長を無事撤退させます。

浅井・朝倉家が信長に滅ぼされると、秀吉は浅井家の旧領であった北近江を任せられて長浜城の城主となります。その後、秀吉は本願寺石山合戦や長篠の戦いに従軍して功績を挙げ、出世していきました。

備中高松城攻め

天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信柴田勝家が手取川で対峙すると、秀吉は勝家の救援を信長に命じられます。しかし作戦に関して勝家と対立したため、秀吉は無断で兵を撤収して帰還してしまいました。結果、勝家は謙信に敗れたため、秀吉は信長から叱責を受けます。

織田家が近畿地方を制すると、秀吉は織田信忠と共に中国地方へ遠征し、備中で毛利家と対立しました。秀吉は三木城と鳥取城を兵糧攻めにして陥落させ、備中高松城を水攻めにして陥落に追い込むなど功績を挙げ、信長に賞賛されました。

本能寺の変

本能寺
本能寺(京都市中京区)

天正10年(1582年)、明智光秀の謀反で信長が横死すると、秀吉は毛利輝元と和解して高松城攻めを中止し、京都に軍を返して光秀と戦います。

秀吉は信長の三男・織田信孝丹羽長秀らと共に山崎の戦いで光秀を討ち、戦功を立てた秀吉は清州会議で織田信忠の長男・三法師(織田秀信)を信長の後継者に推薦しました。

柴田勝家は秀吉に反対して信長の三男・織田信孝を擁立しましたが、池田恒興や丹羽長秀らも秀吉を支持し、更に三法師の後見人を信孝にすると提案したため、勝家もそれに従いました。

その後、秀吉は私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、次第に勝家との対立が深まり賤ケ岳の戦いに発展しましたが、秀吉が勝利し、勝家はお市の方と共に自害しました。

小牧・長久手の戦い

織田家内で強大な勢力を手にした秀吉は、天正11年(1583年)に石山本願寺の跡地に黒田孝高を総奉行として、大坂城を築きます。

秀吉の専横に不満を抱いた織田信雄徳川家康と共に秀吉に決起しましたが、争いには決着がつかず和睦となります。

関白就任

伏見城
伏見城(京都市伏見区)

天正13年(1585年)、秀吉は朝廷より関白に任官されて天下統一の大義名分を得、私戦を禁ずる惣無事令を全国に発布します。

秀吉は東海の徳川家康や三法師こと織田秀信など全国の諸大名を臣従させ、最後に関東の北条家を小田原征伐で滅ぼし、天下統一を成し遂げました。

朝鮮出兵

天下統一した秀吉は朝鮮出兵を計画し、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築きました。

文禄元年(1592年)からは明・朝鮮の征服を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を出兵しましたが、明・朝鮮連合軍の抵抗で戦は長引き、文禄2年(1593年)に明との間に講和交渉が開始されました。

文禄5年(1596年)に講和交渉が決裂すると、慶長2年(1597年)に小早川秀秋を元帥として14万人の軍が出兵されましたが、翌年秀吉は醍醐の花見に参加した後から病に臥せるようになります。

死期を悟った秀吉は豊臣五大老の一人・徳川家康に豊臣秀頼の後見人になるよう遺言を残して死去しました。

秀吉の死後、五大老により朝鮮に派兵されていた日本軍に帰国命令が発令され、秀吉の遺体は伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に移され埋葬されました。

豊臣秀吉の城

大阪城

大坂城
築城当時は「大坂城」と表記されていましたが、「坂」の字が「土に返る」、「士(さむらい)が謀反を起こす」などの意味を連想させるため、後に「大阪」の表記になったといわれています。

大坂城は豊臣天下の象徴としてだけではなく、京都の勢力をけん制する役割がありました。また、大坂城の建つ地には京都まで繋がる川があり、この川を川の流れが遅く水が淀んだことから「淀川」と名付けています。

大坂城が建てられた土地には石山本願寺がありましたが、信長により本願寺は焼き討ちされます。本願寺のある土地は周辺に海や川が近く、天然の要害が多いことから難攻不落の地でもありました。

そのため、かねてより信長は本願寺のある土地に自分の城を築きたいと考えていましたが、本能寺の変で信長が亡くなったことで、秀吉は信長の遺志を引き継ぎ本願寺跡に大坂城を建設しました。




豊臣秀吉の逸話

信長の下駄

下駄
秀吉がまだ藤吉郎の名で信長に仕えていた頃、ある寒い日に信長が下駄を履こうとすると、その下駄が温かくなっていました。

藤吉郎が下駄の上に腰かけていたと思った信長は藤吉郎を咎めましたが、藤吉郎は「寒い日なので、足が冷えていらっしゃるだろうと思い、懐で温めておりました」と言います。

藤吉郎の懐には下駄の跡が残っていたので、信長は感心し、それから藤吉郎に目を掛けるようになったといわれます。秀吉が出世したきっかけとして有名な逸話ですが、「名将言行録」では下駄は懐ではなく、背中に入れて温めていたと記録されています。

賤ヶ岳合戦記

影向寺掃除地蔵
賤ヶ岳の戦いで、秀吉は熱暑に苦しむ兵たちのため、農家から大量の菅笠を買いました。そしてそれを敵味方の区別なく配ったことが「賤ヶ岳合戦記」に記録されています。

また、この戦いで中立を保っていた立場から一転、秀吉に従属した小早川隆景に対しては「本来は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命は助ける」といい、領地も分け与えています。

大沢次郎左衛門

美濃平定の戦いで、秀吉が宇留馬(現在の鵜沼)城主・大沢次郎左衛門を味方に引き入れて信長の下に連れてきました。しかし信長は「この大沢なる者は武勇に秀でているが、心変わりしやすい人間は味にできない。切腹させよ」と命じます。

これに対し秀吉は「降参してくる者を切腹させれば、今後織田家に降参してくる者はいなくなります」と献言しますが、秀吉の意見は聞き入れられませんでした。

そこで秀吉は大沢の元へ戻り事情を説明した後、「このままでは危険ですから逃げてください。不審に思われるなら、私のこともお連れください」と刀や脇差しを置いて言いました。

大沢は秀吉の誠意に胸を打たれ、厚く礼を述べた後、無事脱出に成功しました。この一件をきっかけに、秀吉の配下になりたいと思う兵が増えていったといわれています。

秀吉と茶会


農民出身の秀吉は、茶道、和歌、能楽、古典文学、儒学、禅といった武士には欠かせない勉学や嗜みをその道のプロに教わるなど、教養を身に着けるための努力も欠かさなかったようです。

秀吉は人と同じことをするのを嫌う性格であったといわれ、仮装茶会と呼ばれる茶会では、参加する武士たちに身分の低い者の姿をしてくるように言い、自らも瓜売りの姿に扮して茶会に訪れたといいます。

また、当時武士の間で茶器は貴重なものと見られており、城一つと同じ価値を持つ茶器などもありました。しかし、百姓出身の秀吉はその価値観を快く思っていなかったようです。

千利休を切腹させたのは、著名な茶人の目利きによって、ただの器であったものが高価なものへと変わることを秀吉が良く思っていなかったためとも一説にはいわれています。

秀吉の指

秀吉は指が6本あったという記録が「フロイス日本史」にあります。真実であれば多指症と考えられますが、右手の親指が1本多く、信長からも「六ツめ」と呼ばれていたらしいことが「国祖遺言」に記されています。

秀吉の生きていた当時は幼児期までに切除して五指としていたようですが、秀吉は生涯六指のままであったといわれています。天下人となった後はそのことを隠したため、肖像画は親指を隠す姿で描かせていたようです。

秀吉の死因

秀吉の死因についてはガン、脚気、梅毒など諸説ありますが、病死と考えられています。

慶長3年(1598年)、醍醐の花見と呼ばれる盛大な宴に参加した後、秀吉は病に倒れます。その後病状は悪化していき、7月には伏見城に家臣を呼び集め、徳川家康に秀頼の後見人になるよう伝えます。

秀吉がみるみる衰弱していくために、秀吉の病は祟りであるという噂も起こりました。それは秀吉が病にかかる前年、甲斐善光寺から京都方広寺へ善光寺の本尊である阿弥陀三尊を移していたためです。それは、秀吉の命令によって移されたものでした。

そこで阿弥陀三尊像を善光寺へ戻すことになりましたが、三尊像が戻される前の8月18日、秀吉はその生涯を閉じます。享年62歳でした。

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