1548年~1573年(26歳)
斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、美濃国の戦国大名です。美濃斎藤家最後の当主であり、朝倉家が滅亡した一乗谷城の戦いで朝倉義景に従軍し、織田信長に敗れました。
斎藤龍興の生まれ
龍興は天文17年(1548年)、美濃(岐阜)大名・斎藤義龍の子として生まれました。
永禄4年(1561年)に義龍が死去すると、14歳で家督を継いで美濃斎藤家・3代当主となります。
新加納の戦い
1563年(永禄6年)、龍興は父の代から続く尾張の織田信長と戦います。織田軍5700の兵に対し、斎藤軍3500と兵数では斎藤軍が不利な状況でしたが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策が功を奏し、織田軍に勝利します。
しかし、龍興は半兵衛を評価せず、褒賞を与えるどころか馬鹿にしたため、翌年龍興の留守中に半兵衛から居城・稲葉山城を乗っ取られてしまいます。半年後、半兵衛は龍興に城を返しましたが、斎藤家を出奔しました。
稲葉山城の戦い
永禄10年(1567年)、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが信長に内応して稲葉山城へ侵攻し、稲葉山城が落城します。龍興は北伊勢の長島へと亡命したものの、美濃大名としての地位を失いました。
元亀元年(1570年)、長島に亡命した龍興は長島一向一揆に参加して信長に対抗しますが、縁戚関係にあった越前国の朝倉義景の下で保護されます。
一乗谷城の戦い・刀根坂の戦い
天正元年(1573年)、義景が浅井長政を支援して信長と戦う際には龍興も従軍しました。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万で対陣しましたが、既に浅井長政が居城・小谷城に包囲されていたことから、勝ち目がないと判断した義景は撤退を決断します。
しかし、信長は撤退する朝倉軍を追撃したため、朝倉軍は多くの戦死者を出しました。朝倉軍も追撃してくる織田軍に奮戦したものの、朝倉景行や朝倉道景といった一門だけでなく、龍興も戦死しました。
斎藤龍興の逸話
龍興生存説
刀根坂の戦い後、龍興は石山本願寺に逃れたという生存説があります。龍興は本願寺勢力と再起を果たそうと考えていましたが、遂に病没したという説です。
また、龍興は興国寺(富山市)に隠れたという説もあり、お家再興は難しいと判断した龍興は名を変えて九右ェ門と名乗り、付近の土地を開拓して一族と共に暮らしたともいわれます。
キリシタン大名
龍興は宣教師ルイス・フロイスからキリスト教について教えられた際、それらを全て書き留めておき、次に教会へ来たときには一言一句の間違いなく反復したといいます。
また、龍興は「人間は神の祝福を受けており、万物の霊長であるという。ならば、なぜ人間界には多くの不幸があり、戦乱は終わらないのか。万物の霊長と創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのか。荒んだ世の中を善良に生きている人間が現世で何の報いも受けられないのは、何故なのか」と宣教師に尋ねたともいいます。
宣教師は義龍の問いに納得がいく道理を上げて説明したといわれますが、こうした鋭い質問を投げかけた龍興をフロイスは「非常に有能で思慮深い」と評価したといいます。