1561年~1623年(享年64歳)
森 可政(もり よしまさ)は、織田信長に仕えた森家の武将です。森長可の補佐を務めていましたが、森家出奔後は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて後、森忠政に仕えて森家に復帰しました。




森可政の生まれ

可政は永禄3年(1560年)、森可行の子として尾張国(愛知)に生まれました。兄に森可成がいますが、可政は父・可行が60歳のときに生まれた子であり、兄とは37歳の年齢差がありました。また、可政は可行の後妻の子であるといわれており、可成とは異母兄弟ということになります。

可成の死後は家督を継いだ可成の子・長可の補佐を務めましたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で安土城にいた長可の弟・仙千代(森忠政)とその母・妙向尼が長可配下の甲賀衆に救出されましたが、可政の娘・於鍋は置き去りにされたため、可政が独自に救出しました。このことから長可と可政の間に不和が生じ、可政は森家を出奔します。

豊臣政権下

森家出奔後は羽柴秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、文禄・慶長の役などに従軍しました。慶長の役では渡海して釜山の城を落とす際に功を挙げたため、戦後1,860石に加増されました。

可政は秀吉に仕える一方、徳川家康とも誼を通じており、関ヶ原の戦いでは東軍の有馬則頼に属して戦い、戦後500石を加封されます。江戸幕府成立後は家康の直臣に取り立てられ、対馬守に任官されました。

森家との和解

美作津山藩主で可政の甥・森忠政は可政を数少ない生き残りの一門として、森家への復帰を希望していました。慶長17年(1612年)、可政は津山藩へ戻り、忠政の下で森家に復帰します。忠政は可政に所領5000石と執政権を与えて厚くもてなしました。

その後は森家中で大きな発言力を得て忠政を補佐し、慶長20年(1615年)の大坂の陣で忠政が出陣する際には津山藩の留守居役で領国経営を代行しました。

元和9年(1623年)に可政は死去し、可政の遺領は息子らに分配して引き継がれました。