一文字三星

一文字三星
1553年~1625年(享年73歳)
毛利輝元(もうり てるもと)は、安芸国の戦国大名です。

高松城の戦い後から豊臣家に臣従し、豊臣政権の五大老になりました。

関ヶ原の戦いでは西軍総大将となり、江戸時代は長州藩の藩祖となりました。




毛利輝元の生まれ

輝元は天文22年(1553年)、安芸国(広島)の大名・毛利隆元の嫡男として生まれました。幼名は幸鶴丸で、父・隆元は幸鶴丸が11歳のときに亡くなり、祖父・毛利元就が毛利家の実権を握りました。

永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝から一字を与えられ毛利輝元と名乗って元服し、元亀2年(1571年)に元就が亡くなると、当主となった輝元は重臣の補佐を受けながら政治・軍事を行いました。

高松城の戦い

天正10年(1582年)、羽柴秀吉率いる織田軍が毛利家討伐のため高松城へ侵攻してきました。城を守るのは毛利家臣・清水宗治で、織田軍が3万近い軍勢で攻め込んできたのに対し、高松城は3千〜5千の兵で城に立て籠もりました。

輝元も4万の兵を率いて援軍に向かいましたが、既に秀吉が水攻めを行い、高松城は孤立無援の状態になっていました。

輝元の援軍は高松城に近づくことができず、また織田軍の援軍として明智光秀が来ることを知ると、毛利軍はやむなく織田軍と和議を結ぶことを決めます。

その後、援軍に来るはずだった光秀は本能寺で信長に謀反を起こし、秀吉はその事実を隠したまま毛利家と和睦を結ぶと、中国大返しを行って京都へ向かいました。

関ヶ原の戦い

戦後、毛利家は豊臣家に臣従し、四国攻めや九州征伐に参戦したため、112万石の所領を安堵されて安芸中納言と称されました。また、慶長2年(1597年)には豊臣政権の五大老に任じられました。

秀吉没後、徳川家康石田三成が対立すると、輝元は西軍総大将として大坂城に入城します。

輝元は大坂城から各地に兵を派遣させる役目を負っていましたが、三成の壊滅後、敗北を悟った輝元は大坂城から退去し、派兵させた軍も随時撤退させました。

戦後、毛利家は改易は避けられたものの、家康によって所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石にまで減封されました。

輝元は家督を嫡男の毛利秀就に譲り、秀就は初代の長州藩主となります。

その後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城の普請手伝いなどに務め、寛永2年(1625年)に藩邸で亡くなりました。輝元の墓所は旧天樹院(山口県萩市)にあります。

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