1523年~1563年(享年41歳)
毛利 隆元(もうり たかもと)は、安芸国の戦国大名です。
父・毛利元就の隠居後に家督を継ぎましたが、実際は元就が毛利家の実権を握っていたため、隆元は元就を補佐して毛利家の繁栄を支えました。
毛利隆元の生まれ
隆元は大永3年(1523年)、安芸国(広島)大名・毛利元就の嫡男として生まれました。
幼名は少輔太郎(しょうのたろう)といい、天文6年(1537年)に毛利家が従属していた周防国の大名・大内義隆の元へ人質として送られます。その間に元服した少輔太郎は、大内義隆から一字を賜って隆元と名乗りました。
天文9年(1540年)、隆元は義隆から毛利家の居城・吉田郡山城に戻ることを許されます。天文15年(1546年)には元就が隠居したため、隆元は家督を継いで第14代当主となりました。
厳島の戦い
天文24年(1555年)、大内義隆に謀反を起こした陶晴賢が義隆を自害に追い込み、大内家の実権を握った晴賢は、2万から3万の大軍を率いて厳島まで攻めてきました。
しかし、毛利軍の奇襲隊が本陣を攻撃すると、晴賢は撤退を余儀なくされ、更に晴賢が率いていた大内水軍は毛利の村上水軍に壊滅されて退路を断たれました。
逃げ場を失った晴賢は自害し、その後は晴賢の子らも殺害、自害に追い込まれて陶家の嫡流は途絶えました。
毛利隆元の最期
永禄3年(1560年)、隆元は足利義輝から安芸の守護職に任じられ、その後も備中・備後・長門・周防の守護職に就き、毛利家は将軍から中国地方の大名と認められます。
その後出雲の大名・尼子晴久が死去すると、隆元は尼子討伐のため挙兵しましたが、行軍中に家臣・和智誠春と晩餐を共にした翌朝に隆元は急死しました。
父・元就は隆元の急死に暗殺の疑いを抱き、誠春ら隆元の側にいた家臣たちを誅伐、切腹させました。
隆元の死後、毛利家の家督は隆元の嫡男・毛利輝元が引き継ぎ、元就の指導を受けながら政務を行いました。