?~1582年
津田 信澄(つだ のぶずみ)は、織田信長に仕えた戦国時代の武将です。
織田家の庶流に当たる津田姓を名乗り、石山本願寺攻め、甲州征伐などの戦に参戦しましたが、本能寺の変で信長の死後に信澄も死去しました。
津田信澄の生まれ
信澄は弘治元年(1555年)~永禄元年(1558年)に織田信勝の嫡男として生まれました。織田信長の甥に当たり、信長の嫡男・信忠とはほぼ同年であったといわれます。
弘治3年(1557年)に父・信勝が織田家当主となっていた信長に謀反を起こして暗殺されましたが、信澄は助命されて織田家臣・柴田勝家の元で養育されました。
元亀2年(1571年)、信澄は織田家に降った浅井家臣・磯野員昌の養嗣子となり、天正2年(1574年)~天正3年(1575年)の間に元服しました。
また、信澄が元服した頃には、後に徳川家臣となる藤堂高虎が4度目の主君として信澄に仕えましたが、戦功を上げても禄が加増されず、不服に思った高虎は信澄の下を出奔しました。
大坂城代
天正6年(1578年)、磯野員昌が信長の叱責を受けて高野山へ出奔すると、その所領・高島郡が信澄に与えられ、信長と信忠に仕えます。また、明智光秀の娘と婚姻して娘婿となりました。
その後は織田軍として石山本願寺攻め、荒木村重の討伐、天正伊賀の乱、甲州征伐などに参戦しました。天正8年(1580年)に石山本願寺が信長に降伏すると信澄は大坂に駐屯したことから、イエズス会は信澄を「大阪の司令官」と呼んでいました。
本能寺の変
天正10年(1582年)、本能寺の変で舅の光秀が信長に謀反を起こすと、光秀の娘婿であった信澄にも謀反の疑いがかかりました。
「謀反は光秀と信澄が共謀したものである」として、疑心暗鬼に駆られた織田信孝と長秀に信澄は大坂城で襲撃され、謀反人の汚名を着せられたまま討たれました。享年は25~28歳といわれています。