1511年~1552年?
織田 信秀(おだ のぶひで)は、尾張の戦国大名です。織田信長の父で、尾張国守護代・清州織田家(大和守家)に仕えながら自身の勢力を拡大させていきました。
織田信秀の生まれ
信秀は永正8年(1511年)、尾張勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する織田信定の長男として生まれました。信定は尾張の守護代織田家の一族で、大永6年(1526年)~7年(1527年)頃に信秀に家督を譲ります。
当時、織田家は尾張国守護代・大和守家の家臣でしたが、天文元年(1532年)に尾張にまで勢力を伸ばしていた今川氏豊の居城・那古野城を謀略で奪い取ります。信秀は那古野城に居城を移して勢力を拡大させていきました。天文3年(1534年)には嫡男・信長が誕生します。
信秀は足利義輝にも拝謁し、備後守に任官されるなど勢力拡大と共に権威を得ていきます。また、商港として栄えていた津田湊や熱田湊を発展させて商業を活性化させていきました。
松平家・斎藤家との戦い
享禄2年(1529年)、三河で台頭していた松平清康が尾張愛知郡の岩崎城を攻め取るなど侵攻してきましたが、天文4年(1535年)に清康は家臣の阿部正豊に暗殺されます。信秀は混乱状態にある松平家の隙を突いて三河の安祥城を奪取し、庶長子の織田信広を城主としました。
天文11年(1542年)、美濃の守護大名・土岐頼芸が斎藤道三によって追放されると信秀は頼芸を支援して斎藤道三と戦いましたが、天文13年(1544年)に道三の援軍・朝倉宗滴に敗れました。
信秀の地位、権力は既に主家を上回っていたことから次第に大和守家とも対立し、大和守家当主・織田信友の攻撃を受けると美濃戦線の維持が難しくなっていきました。そこで信秀は道三と和睦して息子・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚させました。
小豆坂の戦い
同時期、松平清康の子・広忠は織田家と対立していた今川家との関係を緊密にするため嫡子・竹千代(徳川家康)を人質として今川家に送ります。
しかし、信秀はの護衛を買収して6歳の竹千代の身柄を奪取し、天文17年(1548年)に岡崎城へ侵攻しましたが、今川の援軍である太原雪斎に敗北しました。
信秀の最期・墓所
翌年には今川軍によって安祥城も陥落し、信広が捕虜にされたため、人質交換として竹千代と信広を交換しました。
こうして信秀の美濃、三河への勢力拡大は失敗に終わり、今川との対立が続く中で病に倒れ、天文18年(1549年)~天文21年(1552年)の間に死去しました。信秀の葬儀は萬松寺(愛知県名古屋市)で行われ、墓所も萬松寺にあります。