1567年~1612年(享年46歳)
有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、肥前国の大名です。キリシタン大名であり、江戸時代には肥前日野江藩の初代藩主となりました。




有馬晴信の家紋

有馬家の家紋は五瓜に剣唐花です。木瓜紋と呼ばれる家紋の一種で、有馬瓜、大村瓜とも呼ばれます。

有馬晴信の生まれ

晴信は永禄10年(1567年)、肥前国(佐賀)島原半島の大名・有馬義貞の次男として生まれました。

元亀2年(1571年)、兄の義純が早世すると晴信は5歳で有馬家の家督を継承します。

天正8年(1580年)に晴信は叔父・大村純忠や父・義貞と同様にキリスト教に改宗して「ドン・プロタジオ」の洗礼名を与えられます。以後、晴信はキリシタン大名として秀吉が禁教令が出すまで、数万人のキリシタンを保護するなど、キリスト教信仰を守り続けました。

南蛮貿易

晴信は主に諸外国との貿易によって利益を得て、有馬家の勢力拡大を狙いました。晴信はキリスト教に改宗していたことでポルトガル商人や宣教師らの協力を得ることができ、最新式の武器を手に入れていきます。

豊臣政権下

晴信が家督を継いだ頃、有馬家は豊後大友家、肥後龍造寺家など諸大名の圧力を受けて一地方の領主にまで凋落していましたが、島津義久と通じて沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ちます。しかし、天正15年(1587年)から始まった豊臣秀吉の九州征伐では豊臣勢に加わって島津家と縁を切りました。

九州平定後、豊臣に臣従した晴信は南蛮貿易の利益が得られると判断した秀吉によって所領を安堵されます。その後は文禄の役に参加し、小西行長、宗義智ら諸大名と共に日本第一軍として釜山へ攻め込み、六年間を朝鮮で過ごしました。晴信軍は兵員2,000ほどの小兵であったものの、貿易で得た最新式の装備は他の大名軍を凌駕していたともいわれます。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは晴信は西軍に属したものの、眼病で出陣できなかったため、嫡男・直純が名代として出陣しました。また、西軍敗北の報を受けると有馬家は東軍に寝返って肥後国の小西行長の宇土城を攻めます。この功績で有馬家の所領は安堵されました。




ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

慶長14年(1609年)、晴信の朱印船の乗組員がマカオとの貿易でマカオ市民と争いになり、50人近くの乗組員や家臣が殺害される事件が起こりました。

この事件に関わった総司令官アンドレ・ペッソアは長崎に来航して徳川家康に謝罪文を送ります。この謝罪を受け入れた家康はペッソアに召喚命令を出しましたが、ペッソアはそれを拒否して逃亡を図ったため、怒った晴信は長崎奉行・長谷川藤広と協力して多数の軍船でポルトガル船を包囲します。しかし、ペッソアは乗員を逃がして船を爆沈し自殺しました。

岡本大八事件

事件後、デウス号撃沈の功績による功績で、晴信は鍋島直茂の所領となっていた旧領回復を家康に願い出ましたが、それは許可されませんでした。その後、本多正純の家臣・岡本大八が晴信に接近し、周旋を請け負った大八に晴信は多額の金品を贈ります。

しかし、これは貿易により多大な利益を得ていた晴信から財産を奪おうとする大八の詐欺であり、旧領回復について何の沙汰もありませんでした。不審に思った晴信が正純に所領問題について質問すると、その後幕府は真偽を糺すため晴信と大八を対決させます。

そこで晴信が大八とやり取りした数通の証文を提出すると、大八は何も弁明できず、詐欺を行った罪を認めます。大八は投獄されたものの、晴信が長崎奉行の長谷川藤広を殺害しようとしていると訴えます。

そこで幕府は再び晴信と大八を対決させ、大八は「晴信と関係の深いイエズス会に対抗するように、幕府側の先買権を強化しようとドミニコ会に接近した藤広を晴信は以前から良く思っていなかった」といった両者が不和となっている理由や暗殺の陰謀について述べると、晴信はこれに対する弁明ができなかったため、晴信も捕らえられました。

有馬晴信の最期

その後、大八は獄に戻されて駿府市街を引き回され、安倍河原で火刑にされました。晴信は旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪で流罪を命じられ、晴信の所領である島原藩4万石は改易、没収されます。後に晴信には切腹が命じられましたが、キリシタンであることから自害を拒み、家臣に斬首させたともいわれます。

晴信死後、嫡男・直純は家康の側近を務めていたため、減封されずそのまま日野江藩(島原藩)を継ぐことが認められました。

晴信の墓所は流罪地の山梨県甲州市にあったとされますが、現在は埋没しており、有馬晴信謫居の跡(甲州市指定史跡)の屋敷跡のみ残されています。




有馬晴信の逸話

島原の乱

岡本大八事件を受けて幕府はキリスト禁教令を発布し、晴信の跡目を継いだ直純は禁教令に従って改宗します。また、領内のキリシタンへの迫害や、晴信と後妻の間に生まれたフランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)という子供を殺害しました。

キリシタン弾圧に嫌気が差した直純は幕府に転封を願い出て、慶長19年(1614年)に日向延岡に5万3千石の移封となります。

直純の移封後は大和五条藩から松倉重政が入封し、厳しいキリシタン弾圧を行って過重に領民から年貢を取り立てました。このことが後の島原の乱が起こる一因となったともいわれます。

天正遣欧少年使節

晴信は天正10年(1582年)に同じキリシタンの大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣し、ヨーロッパ、アフリカ方面に視察団を送りました。

アフリカへ渡った使節団の手記には「今までにもあの黒い者らが日本へ渡って来るのを沢山に見た事がある」と書かれており、晴信の時代には既に多くの黒人が日本に訪れていたことが分かります。

また、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によれば、沖田畷の戦いで日本人の砲手がいない中、貿易で日本に来たカフル(アフリカ)人やマラバル(インド)人が大砲を撃って戦ったともいわれます。

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