1507年~1551年(享年45歳)
大内 義隆(おおうち よしたか)は、周防の在庁官人(地方官僚)を務めた大名です。
西国に大内政権を築き、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めましたが、家臣・陶隆房の謀反を受けて大内家は滅亡しました。
大内義隆の家紋
大内家の家紋は大内菱です。
菱の模様は菱の実や葉、河川に自生する水草などを表し、武田信玄で有名な甲斐武田家も菱紋を使用していました。
大内家は百済の聖王の後裔と称していたことから、大内菱は唐花菱ともいわれます。
大内義隆の生まれ
義隆は永正4年(1507年)、周防、長門(山口)・石見(島根)・豊前(大分)4か国の太守・大内義興の嫡男として生まれました。
幼名は大内当主が代々命名された亀童丸(きどうまる)といい、永正17年(1520年)頃に元服して将軍・足利義晴から一字を賜り義隆と名乗りました。
享禄元年(1528年)に父・義興が死去し、義隆が大内家の家督を相続しました。
北九州平定
大内家の勢力拡大のため、義隆は享禄3年(1530年)から北九州へ侵攻し、筑前国を支配していた少弐家と争います。義隆は家臣の陶興房らに命じて少弐家を攻めさせましたが、少弐家の重臣・龍造寺家兼の反撃を受けて大敗しました。
その後天文5年(1536年)に大宰大弐に任命された義隆は北九州攻略の大義名分を得て、少弐資元を討ち取って北九州を平定させました。
月山富田城の戦い
天文10年(1541年)に出雲の大名・尼子経久が死去すると、義隆はこの機に乗じて尼子家の居城・月山富田城を攻めましたが、大内家の傘下であった国人衆の寝返りを受けて大内軍は大敗します。
更に義隆の甥・次期当主としていた大内晴持が、尼子軍の追撃を受けて死去し、義隆は勢力拡大への野心を失っていきました。
その後、義隆は文治派の家臣を重用するようになり、武断派の陶隆房らを遠ざけたため、次第に対立するようになりました。
大寧寺の変
天文20年(1551年)、義隆と対立していた陶隆房が謀反を起こし、5,000〜10,000の兵を率いて大内家の館に火をかけました。
義隆も2,000〜3,000の兵を集めたものの突然のことに統制が取れず、義隆は逃亡して大寧寺(山口県長門市)に立て籠もったものの、隆房から逃げることは叶わず、自害に追い込まれました。
義隆の嫡男・大内義尊、三男の歓寿丸も陶軍の追手に捕らわれて殺害されましたが、義隆の次男・大内義教は、隆房を支持した内藤興盛の孫であったため助命されました。
義隆・義尊が死去したことで、周防国大名としての大内家は滅亡しました。
辞世の句
「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)」
【意味】「討つ者も、討たれる者も、皆露の如く、雷の如く儚いものだ。まさに、そう覚悟するべきである」
大内義隆の居城
大内氏館(おおうちしやかた)
山口市大殿大路にあった館で、大内家の居館として使われていました。大内家24代当主・大内弘世が山口に本拠を築くために造られた城館で、館の背後には高嶺城(こうのみねじょう)が建てられていました。
館は京都の将軍邸を模していたといわれ、館の北側には築山館という別邸が築かれていたことから、大内氏館は居館、築山館は迎賓館として使われていたと考えられています。
現在は池泉庭園、枯山水庭園などが復元整備されており、国指定の史跡となっています。
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