1530年~1586年(享年57歳)
吉川 元春(きっかわ もとはる)は、安芸の戦国大名・毛利元就の息子です。安芸の名門・吉川家に養子として出され、吉川家の家督を相続しました。
10歳で元就の反対を押し切って初陣し、何人もの敵を討ち取った武人肌の猛将で「鬼吉川」とも呼ばれました。生涯で76の戦に参戦し、そのうち64の勝利を挙げた名将です。
吉川元春の家紋
吉川家の家紋は丸に三つ引です。引き両紋と呼ばれる家紋の一種で、丸に一つ引き、丸に二つ引きなど様々なものがあります。
引き両紋は本陣の陣幕を家紋としたもの、八卦で乾の位置に引いた直線を潜龍と呼ぶことから、龍を表す文様であるなど諸説ある家紋です。
吉川元春の生まれ
元春は享禄3年(1530年)、安芸国(広島)大名・毛利元就の次男として生まれました。
天文16年(1547年)、元春は母方の従兄であり安芸の国人・吉川興経の養子となります。興経は自分の子である千法師の元服後、家督は千法師に継がせる条件で元春を養子に迎えました。
しかし、その後元就が家臣・熊谷信直らに命じて興経と千法師を殺害させたため、元春は吉川家を乗っ取る形で当主となりました。
白鹿城の戦い
永禄5年(1562年)、元就は対立していた出雲の大名・尼子家と戦うため毛利三兄弟の隆元、元春、隆景を連れて出陣しました。しかし、遠征途中に豊後の大名・大友宗麟が毛利領へ攻め込んできたため、隆元は大友軍を迎え撃つために別行動となりました。
元就率いる遠征軍が攻め込んで来ると、尼子家の支城・白鹿城にいた尼子軍は籠城し、元春は白鹿城の北にある真山城(島根県松江市)を占拠し、白鹿城と月山富田城を分断させて兵糧の運搬を阻止しました。
一方、隆元は大友家と和睦を結び、白鹿城の戦いに合流しようとしていましたが、その途中で急死してしまいます。元就は「隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし」と将兵らを諭し、遠征軍の士気を奮い立たせたといいます。
その後も籠城戦は一進一退の攻防戦が続き、翌年には尼子当主・義久の弟である尼子倫久が援軍を送ったものの、既に白鹿城は毛利軍に包囲されており、援軍も敗退しました。援軍の壊滅を受けて白鹿城に籠城していた将兵は毛利軍に降伏しました。
月山富田城の開城
永禄8年(1565年)、白鹿城を制圧した毛利軍は尼子家の居城・月山富田城への総攻撃を行い、元就は正面、元春は南、隆景は北からと城を包囲する形で攻め込みます。
また、亡き隆元の嫡男・毛利輝元や元春の嫡男・吉川元長も初陣として戦いに参戦しました。
しかし、追い詰められた尼子軍の士気は高く、連日攻め立てる毛利軍の侵入を阻止したため元就は一時兵を撤退させ、今度は富田城を包囲して兵糧攻めを行いました。
やがて富田城の兵糧が困窮してくると、尼子軍から次々と投降者が現れ、最終的には尼子家の譜代家臣まで毛利軍に投降し、籠城を維持できなくなった尼子軍は降伏せざるを得なくなりました。
降伏後、尼子義久は安芸国で幽閉され、尼子家に勝利したことで毛利家は中国地方最大の戦国大名となりました。
備中高松城の戦い
父・元就の死後、毛利家の家督は元就の孫である輝元が継承し、元春は弟の隆景と共に輝元を補佐しました。
天正10年(1582年)、織田信長の命令で羽柴秀吉が毛利の支城・備中高松城へ侵攻してくると、元春は弟の隆景や甥の輝元と援軍に駆けつけますが、その頃高松城は織田軍によって水攻めで包囲され近づけず、戦いは膠着状態となりました。
しかし、その最中に本能寺の変で信長が横死したため、秀吉は毛利と和睦を結び、織田軍は備中国から撤退しました。
吉川元春の最期
備中高松城の戦いと同年、元春は家督を嫡男・吉川元長に譲り隠居しました。
その後、毛利家は秀吉に臣従しますが、元春は秀吉を嫌っていたとされ、天正13年(1585年)に秀吉によって行われた四国征伐に隆景は参加したものの、吉川軍は元長が総大将として参陣したのみで、元春は参加しませんでした。
天正14年(1586年)の九州平定で、元春は秀吉から出陣を請われて参加したものの、この頃元春は病に蝕まれており、出征中に豊前小倉城(福岡県北九州市)で亡くなりました。