1491~1542(享年52歳)
浅井 亮政(あざい すけまさ)は、北近江の戦国武将です。江北を治めていた守護大名・京極家に仕えていましたが、京極家の後継者争いの中で実権を握りました。
浅井亮政の生まれ
亮政は延徳3年(1491年)、北近江(滋賀)の国人・浅井直種の子として生まれました。亮政が家督を継いだ頃、浅井家は江北の守護・京極家に仕えていましたが、京極高清が次男・高吉に家督を譲ると長男・高広は激怒し、家督争いが起こります。
江北盟主
京極家の家督争いで、亮政は近江国衆の浅見貞則と共に高延に付き、高清・高吉を尾張へ追放しました。京極家の家督争い以降、江北では国人が力を持つようになり、亮政は国人衆の中でも力を持ち、やがて盟主となって京極家の実権を掌握しました。
江北に勢力を築いた亮政は、南近江の守護・六角定頼と対立するようになります。元々守護職である六角家との対立は亮政にとって不利でしたが、亮政は江北の国人衆をまとめて六角家の侵攻を防ぎました。
京極家との和解
一方、亮政に実権を奪われ傀儡となっていた京極高延は、かつて家督を争った父・高清と和解して亮政に反旗を翻します。
六角家との争いもある中、京極家と戦う余裕がなかった亮政は天文3年(1534年)に京極父子と和解し、高清・高延を小谷城の曲輪の一つ・京極丸へ住まわせました。
六角家との対立
その頃、京極高吉は六角定頼の下へ逃れており、これが六角家が江北へ侵攻する大義名分を与えます。六角軍の度重なる侵攻に亮政は何とか抵抗を続けて六角軍を退け、勢力を保ち続けました。
この際、亮政は隣国越前の大名・朝倉家に援助を求めており、朝倉宗滴が両者の和解に務めたことがきっかけで、浅井家と朝倉家の友好関係が生まれました。
京極高清の死後、天文10年(1541年)に京極高延は出奔し、六角家に付きます。しかし、亮政は京極・六角との対立が続く状況下で天文11年(1542年)に死去しました。
亮政の死後、浅井家の家督は長男・久政が継ぎましたが、久政は六角家に臣従してその庇護を受けることで、領国の内政に務めました。