丸に十字

丸に十字
1547年~1587年(享年41歳)
島津 家久(しまづ いえひさ)は、薩摩の戦国大名・島津家に仕えた武将です。

軍法・戦術に長け、肥前の大名・龍造寺隆信を討ち取って島津を九州最大の勢力へ発展させました。




島津家久の生まれ

家久は天文16年(1547年)、薩摩国(鹿児島)大名・島津貴久の四男として生まれました。幼名を又七郎といい、家久は側室の子で、島津義久義弘歳久は異母兄に当たります。

永禄4年(1561年)、15歳のときに大隅国の大名・肝付家との戦いで初陣し、敵将・工藤隠岐守を討ち取る功を挙げました。

沖田畷(おきたなわて)の戦い

天正12年(1584年)、家久率いる島津軍は肥前の大名・龍造寺隆信と戦い、島津軍5,000~8,000、龍造寺軍18,000~60,000と圧倒的な兵力差がありましたが、島津軍は釣り野伏せという独特の戦法を使いました。

釣り野伏せは、まず全軍を3~4部隊に分けて、その内の1部隊を囮(釣り)として敵軍に向かわせ、残りの部隊は誘致地点に敵が辿り着くまで待機(野伏せ)させます。

囮の部隊を追って、敵が誘致地点まで引き寄せられたときに全部隊で一斉に包囲し、混乱状態になっている敵を討ち取る戦法です。

島津の兵数が少ないことで油断していた龍造寺軍は、島津の戦法にかかって大混乱となって敗北し、総大将の隆信も討ち死にしました。

この戦いに勝った島津軍は筑前・筑後まで勢力を拡大させ、九州の最大勢力となります。

九州平定

天正14年(1586年)、天下統一を目指す豊臣秀吉によって島津征伐の命令が下ると、仙石秀久を総大将として、長宗我部元親信親など豊臣軍6,000の兵力が九州に上陸しました。

島津軍は家久を指揮官とし、豊後戸次川で乱戦となりましたが、豊臣の本陣を攻めて総崩れに追い込むと、長宗我部信親・十河存保らを討って勝利を収めました。

最期

天正15年(1587年)、家久は居城・佐土原城で急死しました。九州平定後、家久は上方での封土を条件に豊臣秀長と単独講和していたため、島津による暗殺説もあります。

ただし、既に豊臣も島津も家久を暗殺する意義が少ないことや、元々家久は病気で体調を崩していたため、病死説が有力であるとされています。

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