1530年~1587年(享年58歳)
大友 宗麟(おおとも そうりん)は豊後の大名で、九州に大友家最大の勢力を築いた人物です。
耳川の戦いで島津軍に追い込まれた後、豊臣秀吉に臣従しました。
大友宗麟の家紋
大友家の家紋は抱き杏葉(だきぎょうよう)です。
植物を模した紋に見えますが、唐から渡来した馬具などの装飾品を模しています。
杏葉は舶来の文様として珍重され、やがて武家の家紋としても使われるようになりました。
大友宗麟の生まれ
宗麟は享禄3年(1530年)、豊後国(大分)の大名で大友家20代当主・大友義鑑の嫡男として生まれました。
幼名は塩法師丸といい、天文9年(1540年)に元服して将軍・足利義晴から一字を拝領して義鎮(よししげ)と名乗ります。
天文20年(1551年)、周防の大名・大内義隆が家臣・陶隆房の謀反で自害すると、義隆の養子・晴英(大内義長)が大内家新当主として擁立されます。
晴英は宗麟の弟であるため大友家は大内家と縁戚になり、大友家も周防・長門に影響力を広げていきました。
また天文23年(1554年)に叔父・菊池義武の反乱を受けた宗麟はこれを退け、最終的に菊池家を滅亡に追い込み、肥後国まで勢力を広げました。
キリスト教との出会い
日本へ布教活動に来ていた宣教師のフランシスコ・ザビエルが豊後へ渡来してくると、宗麟は彼らを迎え入れてザビエルの布教活動を許可しました。
宣教師は大名と会う際に眼鏡、絵画、小銃など珍しいものを献上し、大名の関心を引いて布教活動の許可を受けていました。
宗麟は以前より海外との貿易に関心があったため、ザビエルの布教活動を許可しましたが、宗麟の判断に家臣らが反対し、謀反が起こるなど内乱が続きました。
毛利元就との対立
弘治3年(1557年)、宗麟の弟・義長が毛利元就に攻められて自害すると大内家が滅亡し、周防方面で大友家の勢力も衰退しました。
元就が北九州へ進出してくると、宗麟は毛利家と内通していた筑前の秋月文種を滅ぼして毛利軍に対抗します。
北九州の旧大内領を確保した宗麟は、永禄2年(1559年)に将軍・足利義輝より豊前・筑前の守護を任命されました。
大内輝弘の乱
永禄12年(1569年)、宗麟は肥前で勢力を広げていた龍造寺隆信を攻めましたが、その最中に元就が筑前に侵攻してきたため、肥前から撤退して毛利軍と戦いました。
宗麟は大内家の一族・大内輝弘を周防に上陸させて毛利軍の背後を取り、元就を安芸へ撤退させます。
耳川の戦い
天正5年(1577年)、九州制覇を狙う薩摩の島津義久が日向国に侵攻し、日向の大名・伊東義祐が敗北しました。日向を追われた義祐は宗麟の元へ身を寄せます。
翌年、宗麟は島津軍に対抗するため日向へ遠征し、豊後に亡命していた伊東家の家臣団も加えて侵攻しました。大友軍は耳川以北、島津軍は耳川以南に対立し、初戦は大友軍の優勢に進んでいました。
しかし、将軍・足利義昭から島津軍に「大友領に侵攻し、大友氏の毛利領侵攻を止めさせるよう」との御内書が送られます。
当時、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めていましたが、輝元が上洛に踏み切らなかったため、毛利家の背後を脅かす大友家を攻めさせて上洛を果たそうとしていました。
島津軍は大義名分を得て大友軍を攻め、更に足利義昭の御内書は大友家の領土にも配られたため、筑前の国人・秋月種実や肥前の国人・龍造寺隆信の謀反が起こり、大友軍は多くの重臣や有力武将を失いました。
天正14年(1586年)、義昭の御内書によって近隣大名と対立した宗麟は、
天下統一を進めていた豊臣秀吉に謁見し、豊臣家に臣従する代わりに軍事的支援を受けます。
九州平定・戸次川の戦い
天正14年(1586年)、島津家久が大友領へ侵攻してくると、宗麟は居城・臼杵城に籠城して大砲・国崩し(フランキ砲)を使って城を守りました。
大友軍は滅亡寸前まで追い込まれましたが、翌年豊臣秀長率いる10万の軍勢が援軍に駆けつけると、島津軍は多数の戦死者を出して敗走しました。
宗麟は戦局が逆転していく中で病に倒れ、島津義久が降伏する前にチフスで亡くなったといわれています。
九州平定後、豊後は秀吉の命令で大友家次代当主・大友義統が治めました。
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