1611年~1673年(享年63歳)
保科 正之(ほしな まさゆき)は、徳川秀忠の子で、3代将軍・徳川家光に仕えた人物です。
家光から厚く信頼され、信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主となりました。
保科正之の生まれ
慶長16年(1611年)、2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として生まれました。
当時、庶子の出産は江戸城で行われなかったことから、正之の出産は武田信玄の次女の見性院が預かりました。
見性院は穴山信君の妻でしたが、信君が本能寺の変で横死後、見性院は徳川家に庇護されており、正之が生まれると養育係となりました。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光が正之を養子に迎えると、正之は高遠城に入りました。
家光臣下
寛永6年(1629年)には異母兄で3代将軍の徳川家光、次兄・徳川忠長とも対面し、寛永8年(1631年)には秀忠の命で保科肥後守正之と名を改め、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となります。
正之は謹直な性格で有能であったことから、家光に寵愛されました。
寛永9年(1632年)の秀忠没後、家光は正之を増上寺の徳川家霊廟建立の責任者に任命し、家康の17回忌で日光東照宮への参拝にも同道させるなど、正之を側近として重用しました。
また、正之は家光によって従五位下から従四位下に叙されます。従四位下は10万石以上の大名に与えられるもので、3万石の大名の正之には別格の待遇でした。
その後も家光は正之に江戸城桜田門外の上屋敷を与え、江戸城に招いて茶をふるまったり、明正天皇拝謁のため上洛の際には、供奉(ぐぶ)として正之を先発隊に指名するなど、正之を政務に参加させました。
会津藩主
寛永13年(1636年)、正之が出羽山形藩20万石を拝領すると、高遠藩では正幸の善政を忍んだ3000人に上る領民が逃散し、正之を追って山形に向かいました。
寛永20年(1643年)には陸奥会津藩23万石を拝領し、以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めました。
晩年
慶安4年(1651年)、家光の見舞いに来た正之に家光は萌黄色の直垂と鳥帽子を与えました。
萌黄色の着物は家光が儀式の日に好んで着用していた色で、他の大名は家光を憚って萌黄色の着物を着ませんでしたが、家光が手ずから正之に萌黄色の衣装を渡したことで、将軍と同格であることを意味しました。
また、家光は臨終の際に徳川宗家を補佐するよう正之に遺言し、その後正之は「会津家訓十五箇条」を定めました。
家訓の第一条には「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守って最後まで薩長軍と戦いました。
寛文9年(1669年)、正之は嫡男・正経に家督を譲って隠居し、寛文12年(1672年)に江戸三田の藩邸で亡くなりました。
墓所は見祢山(福島県耶麻郡)にあり、墓に隣接する土津神社(はにつじんじゃ)では、祭神として祀られています。