1545年~1582年(享年42歳)
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田家臣団の譜代家老衆、武田二十四将に数えられる名将で、信玄の従甥に当たる人物でもあります。

小山田信茂の生まれ

信茂は天文8年(1539年)~天文9年(1540年)の間に小山田家当主・小山田信有の次男として生まれました。祖母が武田信虎の妹であることから、信茂は武田信玄の従甥に当たります。

小山田家は郡内地方の国衆で甲斐武田家に属しており、天文21年(1552年)に父が病没すると兄の弥三郎信有が家督を継ぎましたが、弥三郎もまた永禄8年(1565年)に病で亡くなったため、信茂が家督を継ぎました。

信玄配下

八王子城跡
八王子城跡(東京都八王子市)

永禄11年(1568年)に武田・今川・北条の三国同盟が決裂すると、信玄は駿河侵攻を始め、信茂は先陣を任せられて駿河江尻(静岡県静岡市清水区)から上原(同市同区)で転戦したといわれています。

翌年に武田軍は小田原城(神奈川県小田原市)を包囲しましたが、北条家が戦わず籠城したため武田軍は撤兵し、その途中で待ち伏せていた北条氏照・北条氏邦の軍勢と戦う三増峠の戦いが起こります。

信茂は別動隊を率いて氏照の本拠・八王子城(東京都八王子市)を攻めるなど、北条の援軍出陣を阻止したとされていますが、信茂は三増峠の戦いには参加していないという説もあります。

元亀元年(1570年)には駿河、伊豆への出兵が行われ、信茂は武田勝頼、山県昌景らと韮山城攻めに参加し、戦場での活躍から信玄に信頼されていました。

元亀3年(1572年)に信玄は織田信長に対して西上作戦を行い、信長の同盟国・三河の徳川家康を攻めて三方ヶ原の戦いが起こりました。

この戦いで信茂は先陣を務めて投石隊を率いたとされていますが、投石隊の指揮官が信茂だったというのは後世の創作といわれています。

勝頼配下

長篠・設楽原決戦場跡
長篠・設楽原決戦場跡(愛知県新城市)

天正3年(1575年)の長篠の戦いで、信茂は(馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、原昌胤など)と勝家に退却を進言しましたが、勝頼は家臣の意見を聞き入れず織田・徳川との決戦に臨みました。

信茂は設楽ヶ原の決戦で左翼に位置し、山県昌景や内藤昌豊と共に徳川勢と戦いましたが、中央部隊の武田信廉穴山梅雪(信君)らが意欲的に戦わず退却したため戦線崩壊し、信茂は勝頼を警護しながら退却しました。

戦後、越後の上杉家中で起こった御館の乱で、武田家は甲相同盟から北条家の養子である上杉景虎に加勢していました。しかし、その後上杉景勝から財政難の武田への支援を条件に和睦が提案され、勝頼はこれを承諾して信茂が武田・上杉間の取次役を任せられました。

甲州征伐

天正10年(1582年)、織田・徳川による甲州征伐が始まると、軍の統制が取れず敗北した勝頼は新府城(山梨県韮崎市)まで撤退します。

次の避難先として、真田昌幸が上野・岩櫃城への避難を主張したのに対し、信茂は郡内・岩殿城への避難を提案しました。

勝頼は信茂の意見を容れて郡内領へ退避しましたが、道中脱落者が続出する状況を見て、武田家の滅亡を悟った信茂は突如勝頼から離反しました。

信茂は郡内への入り口である笹子峠(大月市・甲州市)封鎖し、行く手を遮られた勝頼は織田軍・滝川一益の軍勢の追撃を受け、天目山に追い詰められた末に自害しました。

織田・徳川により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し織田軍に投降しようとしましたが、織田信忠から武田家への不忠を咎められ、一族と共に処刑されました。

信茂の墓所(首塚)は、処刑が行われた善光寺(山梨県甲府市)にあります。

離反の理由

勝頼が新府城まで撤退した際、信茂は小山田家の領土である郡内・岩殿城への避難を提案したという説が有名ですが、実際に郡内への避難を決めたのは、信茂でなく勝頼自身、もしくは家老の長坂光堅が提案したともいわれています。

勝頼が新府城から岩殿城へ向かう道中、従者は百人以下にまで減り、既に親族や家臣団の裏切りが続出している厳しい状態でした。

もしこの勝算のない勝頼を岩殿城で匿えば、軍内は織田・徳川連合軍20万の大群に包囲され、領民は戦死し、領地は焦土と化す最悪の事態が予想されました。

信茂も武田家臣である前に、小山田家が代々400年にわたって守り続けてきた郡内を守る責任があります。

実際に信茂が岩殿城に勝頼を入れなかったことで、郡内の寺社や民家は戦火にさらされずに済んだことから、信茂は裏切りによって晩節を汚した逆臣というより、小山田家の家臣や郡内の領民たちを守るため、領主としての責任を優先したというのが新説とされ再評価されています。