1460年~1538年(享年79歳)
京極 高清(きょうごく たかきよ)は、北近江の守護大名です。「京極騒乱」と呼ばれる京極家の家督争いを終わらせて当主となりました。
その後、息子の高延・高吉の家督争いを止められず、浅井亮政の下剋上を受けて江北の支配権を浅井家に譲りました。
京極家の家紋
京極家の家紋は平四ツ目結です。目結(めゆい)紋の一種で、目結とは染物の一種、纐纈(こうけち)染めの模様です。一族の結束の強さを表す意味があり、京極家の庶流である尼子家も平四つ目結を使用していました。
京極高清の生まれ
高清は寛正元年(1460年)、京極勝秀の子として生まれました。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると京極家は東軍に付きましたが、乱の最中に京極家当主・京極持清とその嫡男・勝秀が死去したため、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸と勝秀の庶子・乙童子丸(高清の幼名)の間で争いが起こりました。
高清は孫童子丸を支持する叔父・政経と対立し、文明2年(1470年)には政経を後見役として孫童子丸が家督を継ぎます。しかし、文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折したため、再び家督争いが起こり、政経が家督を継いだため、高清は一時甲賀へ逃れます。
京極家当主
京極家当主となった政経は、その後配下の所領横領を阻止出来なかったことで10代将軍・足利義材の怒りを買い失脚し、明応元年(1492年)に高清が京極家当主に認められました。
応仁の乱と京極騒乱の影響で、出雲・隠岐・飛騨・北近江の4ヶ国を支配していた京極家は、高清の治世時には北近江のみに減少していました。高清は京極家重臣・上坂家信を味方につけて江北へ帰還し、永正2年(1505年)に政経の子・京極材宗に勝利して35年続いた家督争いを終わらせました。
江北追放
京極騒乱後、大永3年(1523年)に高清の長男・高延を後継者に推す浅見貞則・浅井亮政ら国人衆と、次男・高吉を押す高清と上坂信光らで再び家中は二分しました。翌年に高延派の国人衆と高吉派の高清・信光らは戦いましたが、高清はこの戦いに敗れて信光と共に尾張へ逃れます。
その後、江北では浅見貞則が専横的な領国支配を行ったため、浅井亮政を旗頭に国人衆が貞則一族を江北から追放し、浅井家が江北の実権を握りました。浅井家に不満を持った京極高延は家督相続で対立した高清と和解し、反亮政派の国人衆と共に亮政と対立します。
しかし、亮政に敗れた高清は天文3年(1534年)、高延と共に亮政の居城・小谷城で浅井家と和解しました。こうして江北の支配権は京極家から浅井家へ移り、京極家は浅井家の後見となりました。京極高吉は後見役を拒否したため、六角定頼を頼って南近江に逃れます。
高清・高延父子は、小谷城の京極丸で暮らしましたが、後に高清のみ上平寺城へ移り天文7年(1538年)に死去しました。その後、高吉は江北奪回のため浅井家と戦いましたが、永禄3年(1560年)に敗北したため、京極家は江北の支配権を失いました。